お栄が「応為」を名乗った年代の上限について(『无名翁随筆』の検討を中心に)

葛飾北斎・応為

かねてから自分は「お栄の生没年」とか「応為作品の年代」とかを気にしていますが、妄想にあたって最も重きを置いているのは「お栄が『応為』を名乗ったのはいつか」という問いです。前述した2件はこの土台として展開しています。

今回はこの問いについて考えて(妄想して)みます。まだまだ周辺知識が少ないので、手を出す順番として適切でないかもしれませんが…

応為初出年を特定するわけではないのですがある程度範囲を狭めてきている論考や、その根拠として挙げられる『无名翁随筆』と呼ばれる資料についての考え事を記していきます。

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研究者による考察について

通説

『无名翁随筆』とは、簡単に説明すると、『浮世絵類考』という浮世絵師事典の増補版です。著者は北斎やお栄と親交のあった渓斎英泉で、天保四(1833)年の成立とされています。

同書における北斎の項ではその家系が記されており、もちろんお栄にも言及があります。

女子 栄女 画ヲ善ス、父ニ随テ今専ラ画師ヲナス、名手ナリ。

『无名翁随筆』「葛飾為一」の項(安田剛蔵1981の翻刻を転載)

「応為」画号という観点からこの記述に注目したのが安田剛三氏。

安田氏は「英泉が天保四年の時点でこの事を書き漏らすことのあるべき訳は絶対にない」として、この記述がなされた天保四年時点でお栄はまだ応為を名乗っていない=応為を名乗ったのはもっと後と断定しています(安田1981)。天保四年が上限ということです。

久保田一洋氏も安田氏の考察に言及。若干疑問を呈しつつも概ね賛同し、加えて安田氏が言及しなかった「応為」開始年代の下限についても補足してます。一般的によく言われる「葛飾『為一』から一文字とって『応為』とした」という説を引き合いに、「為一」号が使われていた天保五年三月を下限としているようです(久保田1995)。かなり絞られています。

いずれも年代がはっきりしている資料を根拠としており、なかなか逆らい難い主張です。そう、先に書いてしまいますが、通説に逆らいたいんですよね。

そんな中でさらに自分から首を絞めてしまうのですが、『北斎伝』を著した飯島虚心も安田氏や久保田氏と同様に考えていた節があります。『北斎伝』では「応為」号の使用年代を特定するような記述をしていなかったはずですが、『浮世絵師便覧』に気になる記述。

応為ヲウ井】葛飾北斎の娘、美人画に巧なり、○天保、慶応

国書刊行会1992『書画人・浮世絵師便覧』所載

お栄の生没年」にて江戸建雄氏の説として確認していたこの記事。江戸氏は没年の根拠として「慶応」部分に着目しており、それなら「天保」は何なんだというのが自分の感想でした。

そのときは「生没年」如何という文脈で見ていたのですが、そういえば「応為名義での活動期間が天保~慶応」という意味で読める気が。

同書には凡例がなく「○[年号]」がどのような意味の記述なのか明示されてはいないのですが、他の多くの絵師にも同じ形式で年号が記されています。あまりつつきたくないので検証はしていないのですが、飯島虚心も「応為」開始年代を天保と考えていた可能性はありそう。

自分の欲望

以上のように「応為」の初出年代は天保頃であることが通説で、その根拠も文字資料から提示されています。「応為は天保から」みたいに直接明記している文章ではないものの推測内容が的外れとは思わないので、自分自身これを真っ向から否定するつもりはないです。現段階では肯定したい気持ちが85%くらい。85%というと大文字の命中率ですね。「外れることがないとは言えないけど、まあ当たるやろ」的な。

ただ個人的な妄想としては、もっと早くから「応為」を名乗っていた可能性を残したい。そのため「応為は天保から説」の確信度を70%くらいと言えるようにならないか、そういう隙がないかを探してみたい。70%というとかみなりの命中率ですね。「多分当たるけど外れそうな気がしてくる」的な。「そう推測もできるけど妥当ではない気がしてくる」的な。

そこで注目したいのが、主張の根拠である『无名翁随筆』です。

『无名翁随筆』検討への疑問

安田氏の検討過程に対する疑問です。

久保田氏は前述のように安田氏の主張に概ね賛同しつつ、疑問も呈しています。『无名翁随筆』にて「名手」とは記されているのだから、「応為」号が記されていないのは「画号が無いから」ではなく別の事情があったのではないかという論評です。「英泉は別の理由があって『応為』号を記述しなかっただけでは」という点は同意です。「別の理由」への言及がちょっとだけしかないのは残念ですが。

余談ですが、安田氏は「記されていない=画号が無い」ではなく「記されていない=『応為号が』まだ使用されていない」と述べているので、久保田氏の論評はややズレているように思います。『狂歌国尽』を初めとして「栄女」を含んでいる落款は多くあるので、安田氏は「『栄女』号は記されているが『応為』号は記されていない」という解釈のもとで主張されているかもしれません。ただ「栄女」が号として記されている=号を記載する方針を採っているのなら、「応為」だけでなく「辰女」も書き漏らされている可能性(※後述)まで検討しておく必要がありそう。結局のところ検討不十分という評に戻ってきます。

まあ安田1981は「全伝」としてお栄に関すること全般の整理を目的とした論文なので、「応為」をいつ使い始めた云々といった細かい話題に労力を避けなかったのだろうなと思います。久保田1995が安田1981に対する疑問を呈しながら「別の理由」を詳しく考察していないのも、そこが主題ではないからでしょう。

とはいえ安田1981では、

  1. 『无名翁随筆』には「応為」号が記されていない
  2. 英泉が記してない理由が何かあるのだろうか(色々考える)
  3. 「応為」号をまだ使っていなかったのでは?

の2.がすっとばされて、

  1. 『无名翁随筆』には「応為」号が記されていない
  2. 「応為」号がまだ使われていないからだ!

とほぼほぼワンステップで展開されているのは確か。「英泉が書き漏らすはずがない」と一言書かれてはいますが、それによってきちんとステップを踏めているとはさすがに言いたくない。

というわけで、自分の思いつく範囲で2.(色々考える)の作業をやってみることで確信度85%を確信度70%くらいにもっていけないか、というのが今回の試み。ここまでの文章を書いた時点ではその作業を始めていないので、「やっぱり85%のままでした(テヘペロ)」とかいう結論になる可能性も十分あるのですが…

『无名翁随筆』の背景情報

『浮世絵類考』~『无名翁随筆』の流れ

前述したように『无名翁随筆』は『浮世絵類考』の増補版とでも言うべきものなのですが、両者の間にも他の増補版が存在します。また、『浮世絵類考』は筆写によって関係者に普及していったため、体裁・誤植・脱字・修正などは大量のパターンがあるようです。(中嶋2004,2006)

大雑把に整理すると以下。

「浮世絵類考」(大田南畝作)・「古今大和絵浮世絵始系」(笹屋新七邦教作)・「浮世絵類考追考」(山東京伝作)
※以上まとめて『浮世絵類考』と呼称
→(式亭三馬の筆写・補記)
→(酉山堂保次郎の筆写)
→(英泉の筆写・増補)書名不明(「大和絵師浮世絵の考」という独自の評論+『浮世絵類考』をベースにした絵師伝で構成?)

中嶋2004には『浮世絵類考』所載の絵師が49名・英泉により追加された絵師が25名とあります。(内訳が示されていないので適宜確認が必要)

仲田1941では『浮世絵類考』『旡名翁随筆』などの合体・翻刻版で、印を付すことでどの段階で初出なのか改訂履歴を明示する形式となっています。『无名翁随筆』より後の増補を含んでいるので内容が膨れ上がっており読みづらいほか、改訂履歴の示し方がちょくちょくおかしいように思われますが…(原作にある記述のはずなのに増補の印を付けている等)

中央公論社本の系譜

『无名翁随筆』は中央公論社にて出版された翻刻版(森銑三ほか1979『燕石十種 第三巻』)が一般に普及しています。近くの図書館に所蔵されていることもあって自分も同書を主に参照したのですが、英泉が執筆した原本からどの程度異なっているかを念頭に置いておくことにします。(中嶋2004,2006)

(英泉の筆写・増補)書名不明
―(筆写・順番組み替え・誰かの頭書が本文に組み込まれる)→都立中央図書館蔵『絵類考 全』(大和絵師浮世絵の考+吾妻錦絵の考+絵師伝)
―(筆写・三浦若海補記)→天理図書館蔵『旡名翁随筆』
―(筆写・三浦補記が本文に組み込まれる)→国会図書館蔵『燕石十種』
―(翻刻)→中央公論社本

『无名翁随筆』には、英泉著の原本にはなかった記述が結構紛れ込んでしまっているようです。

また、上記とは異なる系列として、国立博物館所蔵『浮世絵画濫觴』(原本は”濫”を手偏で誤記)という資料があるようです。これが英泉著の原本に最も近いと分析されています。博物館HPの資料検索では出てこないのが残念ですが、北斎の項は中嶋2006にて全文翻刻されているので参照可能。北斎の項は基本的に『浮世絵画濫觴』を参照し、他の項は中央公論社本に依拠することにします。

資料検討

以下に記載されている文章を見て検討しています。

  1. 式亭三馬による補記まで含む『浮世絵類考』
    1. 『浮世絵類考集』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
      ※崩し字で自分には読みづらい
    2. 『无名叢書7』(国立公文書館デジタルアーカイブ/類考追考)
      ※楷書で読みやすい部分がある
  2. 森銑三ほか1979『燕石十種』第三巻、中央公論社
    ※前述。英泉原本から離れている(色々足されている)点はやや注意
  3. 中嶋修2006「浮世絵類考系写本に残る北斎の記録」『北斎研究』38
    ※前述。中嶋氏により誤字等が修正されている
  4. 仲田勝之助編校1941『浮世絵類考』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
    ※前述。正確性は懐疑的。1.の補助として

お栄への言及

『浮世絵類考』には大田南畝に始まって複数の手が入っているシリーズであり、『旡名翁随筆』もその系譜の1つであることは前述のとおり。

まさかとは思いますが『旡名翁随筆』より前のシリーズで既にお栄へ言及済み(英泉はそれを真似ただけ)…なんてことは、ないですよね?これは初期の文章を確認すればすぐ分かります。

結果として冒頭で引用したお栄へ言及する記述は1.『浮世絵類考』に見られず、3.『浮世絵画濫觴』にて初出。先行文献からの流用ではなく、英泉が書いた文章と思ってよさそうです。

『无名翁随筆』所載の女性絵師

2.『无名翁随筆』にてお栄含む女性絵師がどう記述されているかを確認してみます。

見出し記載名記載内容
岩佐又兵衛女子古法眼玉川狩野元信妻、善
阿りう阿りう享保中の名画なり、山崎氏の姨なり、略伝は△世事談に見ゆ
歌川豊国国登女俗称[欠字]
錦絵あり
葛飾為一女子栄女画を善す、父に随て、今専画師をなす、名手なり

お栄以外で言及があるのは3名。岩佐又兵衛の項に出てくる狩野元信妻は「女子」とあるだけで名無し。

阿りうは唯一単独で立項されています。しかし、作品の落款である「山崎氏女龍」(あるいは単に「女龍」など)への言及は無し。1.『浮世絵類考集』とほぼ同じ記述(むしろ減っている?)で、従来の内容を真似ただけと思われます。

歌川豊国の項に出てくる国登女はちょっと気になります。1.『浮世絵類考』に国登女への言及は無かったので、これは英泉で初出の可能性があります。また、初めは「国登のむすめ」ということで結局名無しの女性絵師かと思いましたが、「国登」という絵師は現在知られていないようです。一方、「国登女くにとめ」は豊国の門人として『浮世絵人名辞典』にもしっかり載っていました。具体的な作品情報を得られていませんが、「国」の字を有していることからも、国登女くにとめ」とは本名ではなく画号であるとみてよいでしょう。

ただし、1-1.『浮世絵類考集』では豊国の項に”国登女”の語がありませんが、「別記す門人数多あり」とある「別記」も存在しません。この筆写本から「別記」が欠落しているだけ=実際は「別記」に国登女への言及があって英泉はそれを真似したという可能性もあります。

というわけで1-2.『无名叢書7』も確認してみましたが、結果は1-1.と同じでした。中嶋2004にて各種筆写本の一部が影印されており他のいくつかの写本でも同じ部分を見ることが出来ましたが、やはり結果は同じ。

考えるに、「別記す門人数多あり」の文は「三馬云」から始まるので式亭三馬による補記です。中嶋2004には三馬補記のない『浮世絵類考』写本(横浜市立図書館椎園校本。『浮世絵類考』原本に最も近い写本とされる)全文の影印が掲載されていますがそちらに「別記す~」の文はなく、確かに当初はなかった文章であることが分かります。中嶋2004曰く三馬による「別記」は補記による構想止まりで現存していないということなので、筆写本において「別記」が欠落しているのではなく、そもそも「別記」は世に出ていない=筆写しようがないと見てよいでしょう。

以上により国登女くにとめ」は先行文献からの流用ではなく、英泉独自の記述であるということが自分のなかで納得いきました(英泉著の原本やそれに最も近い3.『浮世絵画濫觴』を確認できたわけではありませんが…)。同書内で女性絵師の画号を記している例が確認できましたし、特殊な事情でもない限り、英泉は応為号を知っていたなら書いていたはずと思われます。自分の妄想にとっては不利な結果です…

「応為」落款作品

  • 『浮世絵類考』シリーズにおけるお栄への言及は英泉が最初
  • 応為号を知っており特殊な事情もなかったなら、英泉は記述していたはず

ということが分かりました。

「まだ応為号が使われていない」以外の可能性を探るため、まずは英泉は応為号を知らなかったことがあり得るか考えてみます。

これを探るため、無落款で応為と推定されている作品や「栄女」など他の号が使用されているものではなく、「応為」落款が使用されている作品について考えてみます。

作品名落款作品種別制作年代(推定は久保田2015)
月下砧打ち美人図應為栄女筆肉筆画推定天保~弘化(1833~49)
関羽割臂図應為栄女筆肉筆画推定天保末~弘化(1840~47)
百合図應ゐ栄女筆肉筆画推定弘化二(1846)年
三曲合奏図應ゐ酔女筆肉筆画推定弘化~嘉永(1844~56)
竹林の富士図應為栄女筆肉筆画推定弘化~嘉永(1844~56)
吉原格子先之図應為榮
※隠し落款
肉筆画推定安政二(1856)年以降
蝶々二美人図應ゐ栄女筆肉筆画推定なし
女重宝記かつしか応ゐ酔女筆刊本弘化四(1847)年
煎茶手引の種応為栄女筆刊本弘化五(1848)年

各作品の制作年代についても1つ1つ確認して天保以前の可能性を残せるものがないか考察(妄想)したいのですがそれは後日の課題として、ここで気にしたいのは作品種別。刊本も2つありますが弘化年代と遅く、あとは肉筆画。版画(錦絵)が皆無なんですよね。

なぜ錦絵云々に注目したかというと、英泉は国登女へ言及するにあたって「錦絵あり」と記述しているからです。世間一般に頒布される作品があるからこそ名を知るのであって、北斎一派と交流のある英泉とはいえ1点ものの肉筆画にしか使っていない画号までは認識できないのでは?という説。

『无名翁随筆』所載の”名前だけ”絵師

ただ、英泉が応為画号を直接確認できたか否かなんて証明しようがありません。そもそもお栄は応為名義で錦絵を出していたかもしれませんし。現存してないだけで。

一応の関連事項として『无名翁随筆』で見出し絵師の門人として名前が載っているものの何も解説がない人物について調べてみます。大半の絵師は「錦絵あり」とか「摺物あり」とか、作品名まではなくとも何を描いているか解説されています。前述の国登女も然り。英泉はその作品を知っているがゆえに当該絵師を記載するに至ったものと思われます。

ただし一部はこういった解説がなく名前だけで載っています。何をもってそれらの絵師を認識したのでしょうか?英泉が当該人物を認識する要因となり得る作品が現存するかもしれないので、そのあたり整理してみます。ネット上で探せる範囲ですけど。

見出し絵師名調査結果
鳥居清長清時
清之
『浮世絵類考』に既出
奥村利信同上
宮川長春薪水同上
勝川春英春玉刊本『千代始音頭瀬渡』(天明5)が現存(国会図書館蔵)
春青狂歌?摺物が現存(年代未特定。大英博物館蔵)
刊本『三十二相』(文化9)が現存(早稲田大学図書館蔵)
春和wikiあり
錦絵「東西関取集大酒盛之図」(天保4)が現存。(個人蔵多数?)
同錦絵は春和から春亭への改名を示す。
春陽作例なし。天明期の歌舞伎背景画家。
児玉竜一2008「歌舞伎背景画家の仕事」→伊藤熹朔1955『舞台装置の三十年』(天明期とする根拠は示されない)
春久wikiあり
摺物「六歌仙図」(享和元~2)が現存。(楢崎宗重編著・監修1987『秘蔵浮世絵大観』10所載,単色図版102)
春琳wikiあり。作例なし?
歌川豊広広恒wikiあり
肉筆画「春色歌」など(享和~文政?)が現存。(田中増蔵編1912『浮世絵画集』所載,NDLデジタル97コマ目)
広政『俗曲挿絵本目録』にて「しろざけ売」広政画と紹介あり(漆山又四郎1983『近世の絵入本』所載,NDLデジタル192コマ目)
歌川豊国国景wikiあり
錦絵「美人千句合」(文政~天保?)が現存。(立命館大学蔵)
国誌情報見出せず
堤等琳目吉
等川
等けい
等明
情報見出せず
※等明はお栄の夫
秋月wikiあり
摺物「茶摘」(年代不明。大英博物館蔵)などが現存。

多くは天保以前の作例がありましたが、数名は情報を見出せず。

歌川豊国の項・葛飾為一の項は、門人一覧(系図)の末尾に「版画を出していない者は省略した」という補足があります。したがって国誌(豊国の項)は現代において情報がないだけで、何かしら版画の作例があったのでしょう。しかし豊広・春英・等琳の項はそういった補足がないので、同様に考えてよいかは判然としません。

名前のある全員に版画の作例を認めることができれば「応為は版画を出していないから画号を認識されず、記載されなかった」可能性をそれなりに補強できるかと思いましたが、もう一歩な結果となりました。

「応為」号を知っていながら書かなかった可能性について

今度は「特殊な事情」の方を考えてみます。

久保田1995での言及

詳しい検証はありませんでしたが、以下2点のような考え方のもとで執筆されたことにより画号が記されなかったのではという論がありました。

  1. 英泉はお栄を門人ではなく北斎の娘として長女・次女と並列に記載している
  2. 英泉はお栄を独立した絵師ではないと見做していた可能性がある

1つ目の論は系図の書き方の話。他の項は系図が1つであるのに対して北斎為一の項は結構特殊で、系図が3つに分かれています。

  • 「北斎為一」から始まって二代北斎・二代戴斗・お栄含む3姉妹に繋がる系図
  • 「辰政ト云シ頃門人」で始まる系図
  • 「北斎ト号シテノ門人」で始まる系図

第1の系図で「女子」「女子」「女子栄女」と3つ並んでいることから、娘としての記載であって門人として取り扱っていないのではという考え。ただ、子どもを1か所にまとめて書くのは自然なことのように思いますし、そうしたからといって門人としての扱いを省かねばならないのかは疑問。なにより同じ系図に二代北斎・二代戴斗といった門人が記載されている点をどう捉えたらいいのか分かりません。

ちなみに余談ですが、娘3人だけ記載されていて息子2人が無いのは何なんでしょうね?

2つ目の論は英泉がお栄をどのように認識していたかという話。英泉の北斎父娘との関わりについて知れそうな資料がないかと思いましたが、先行研究にて詳しい言及・紹介を見出せず空振り。結局「父ニ随テ今専画師ヲナス」の解釈次第な気がします。自分は「(嫁ぎ先ではなく)父に付き従って今は専ら(家事ではなく)画業をしている」くらいの意味でしか捉えておらず、絵師としての自立性に言及した内容とは思ってなかったんですよね。自立性に関わる内容と考えるなら「専画師」を「北斎工房専属の絵師」と解釈するのでしょうか。なるほどと思いますがどっちが妥当か検討し難い。用例あるのかな…

いずれにしても「英泉は『応為』号を知ってはいたが『旡名翁随筆』には記載しなかった」とはっきり言えるほどの根拠にはしづらい印象でした。

お栄の秘匿性

学術的にも創作的にもお栄は「北斎の代作者」として注目される側面があります。自分だってそれがもとで関心を持っていますし、それに端を発して今回の問いに至っています。

関連する資料として天保六年の嵩山房宛書状が知られます。お栄に入った注文を北斎自ら描く旨を伝達しているものです。小説とかで「北斎名義で描いた方がよく売れるし金になる」とお栄が発言する描写はこういった資料が根拠になっているものと思われます。

まず気になるのは天保六年の書状であること。『无名翁随筆』は天保四年ですが、それと近い時期にお栄個人への注文が入っています。また、当時の北斎は浦賀に潜居中とされています。

  • お栄は単なる北斎の手伝いではなく単独で案件をこなせる技量と版元に認識されている
  • (特にお栄が江戸・北斎が浦賀という位置関係の場合)注文を受けたお栄が(わざわざ)北斎へ報告している

後者についてお栄が北斎の浦賀潜居に同行していた可能性を捨てきれていないのですが、前者のような理解はしてよいはず。後者も是とする場合、本状はお栄自身が自分の名義で作品を世に出すことに前向きでないことも示していると言えるでしょう。

こうした理解のもとで『无名翁随筆』に「応為」画号が記されていない理由を考えた場合、「お栄が個人名義でも活動していると公にしたくない」という北斎父娘の意思が反映されていると言えるかもしれません。「北斎の代作者」というお栄の立ち位置を維持するため、でしょうか。

事実として応為名義の版画は現代に伝わっておらず、刊本が現れるのも北斎の最晩年。世間一般には「北斎」作品を売り出したかったし実際そうしていたと見えます。ただ注文主から本人へ直接指名が入る肉筆画だけは北斎名義にするわけにもいかずに応為名義で納品した。このような背景があったのかもしれません。

(余談)「辰女」も書き漏らしている件について

推敲過程でふと思いついたこと。

  1. 『无名翁随筆』には「応為」号が記されていない
  2. 執筆時点で「応為」号が使われているなら英泉が書き漏らすはずがない
  3. 執筆時点で「応為」号はまだ使われていない!

というのが安田氏の主張でした。2.をさらに噛み砕くと、「応為」号が使われているなら英泉はそれを知らなかったはずがなく、知っているなら書かないはずがないという意味であると思われます。英泉なら必ず知っているというのは北斎と英泉の親交を念頭に置いてのことでしょう。

ただこの主張を展開する場合、「辰女」の扱いも慎重にならなければならないような気がしてきました。

「辰女」は北斎の娘として肉筆画数点に加え『宝歌集』という刊本の挿絵も描いている絵師です。お栄が南沢等明との婚姻中に使用した画号であり文化~文政頃に用いられたというのが通説(確定はしていない)で、安田氏もこの説を採用しています。というか安田氏がこの説を唱えています(説自体は林美一氏が初出か)

となると『无名翁随筆』執筆時点で使用歴があるはずの「辰女」を英泉が書いていないのはなぜ?という問題も同時に考えなければならないのでは、と思ったのです。

  1. 「辰女」を知らなかったから書かなかった→じゃあ「応為」も同じでは
  2. 「辰女」を知っていたが何らかの理由で書かなかった→じゃあ「応為」も同じでは

一応このように「辰女」が書かれていないことと「応為」が書かれていないことがそのまま繋がる可能性があります。検証しづらいうえに、セルフ反論できてしまうのが悲しいところですが。

まず「知らなかった」の方。英泉が北斎一門と関係を持ち始めたのが文政頃なので、同じく文政までの使用である「辰女」は微妙にすれ違ったと考えられなくもない。「辰女」は知らないが「応為」は知っているパターンを想定することができます。

次いで「知っていたが書かなかった」の方。「辰女」は婚姻中の一時的な号という前提であれば、もう使用しない画号だから書かなかったと考えられなくもない。「応為」に同じ理由を適用することはできません。

曖昧なセルフ反論ですが元々思いついた説(既に使用されていたはずの「辰女」号を書いていないのだから、「応為」号を書いてないからといって当時使われていなかったとも限らない)も曖昧。そもそも辰女=お栄説も未確定ですし、あまり前面に押し出せるものではないなという感想に終わりました。

終わりに

85%のままとは言わないけど、結局80%くらいはありそうだなあ。

相変わらず崩し字を避けて翻刻版に頼りながらですが、資料を通読してみて通説と異なる妄想を展開できる足掛かりを一応提示はしてみました。しかし通説への確信度はそれほど下げられていないかなという感想です。

  • お栄への言及自体が過去シリーズになく、英泉が初めて記載している
  • 同じ女性絵師でも画号で記載されている人物がおり、画号を知っているなら記載する傾向っぽい
    • 知っていても書かないような理由/事情を提示することはできるがはっきりとしたことは言えない
  • 「そもそも知らなかったから書けなかった」可能性がなくもないが、もう一歩補強しきれない

『无名翁随筆』の記載内容を分析するという方法だけだとイマイチ踏み込めなかったです。

結局のところ、応為作品それぞれの制作年代について考えないと話(妄想)が進みませんね。天保四年を上限とする説がある程度念頭にあるでしょうが、天保以後として理由の整っている作品が多いですし。文政以前でもおかしくないと言える作品を見出さないと厳しそうです。筆跡とか印章とかいった不慣れな論点にも手をつけなければならないので、ますます拙く・ますます遅筆になりそう。

幸いといっていいのか、FGO第2部奏章ではフォーリナーが扱われないような雰囲気が出てきました。

奏章PVにてフォーリナーのクラスカードが目撃されていますし、2025年のFGOロードマップは明らかにグランドグラフシステムと第2部終章の間が何か1個分空いています。その枠にフォーリナーが入って北斎父娘に焦点があたることを楽しみにしていたんですけど、同時に自分の妄想に対する答えが提示されてしまうかもと恐れてもいました。ご覧のとおり全く考え(妄想)がまとまってないので。

ところが2月28日の更新(オルガマリークエスト_3)でフォーリナーのクラススコアが解放されてしまったわけですね。既に本記事は2月下旬に本項含む後ろ3項以外を書き終えており推敲&挿絵を描くモチベ待ちの期間に入っていたのですが、タイムリーに不意を突かれました。と同時に、フォーリナーシナリオはもっと先かなという若干の安堵。なんなら3月30日の更新(グランドグラフ開放スケジュール)でグランドグラフシステムと第2部終章の間にあった空白が消えましたね。

とりあえず猶予はまだありそうなので応為作品の制作年代を検討できそうな気がします。今回の「もっと早くから『応為』を名乗っていた可能性を残したい」の「もっと早く」とは「為一(文政3初出)より早く」なので、ホント無茶苦茶なんですけど。

さらに今回すら2月下旬に8割、書き足した2項+終わりも3月下旬には書き終えているのに、投稿は5月。遅筆が極まっています。制作年代とか検討してたら新たな猶予を食い潰すどころかFGOが完結している自信があるので、北斎父娘が出てきたシナリオを読み返して大元を整理しておく方が先決かなあ。

主な参考資料

  • 『浮世絵類考集』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
  • 『无名叢書7』(国立公文書館デジタルアーカイブ/類考追考)
  • 久保田一洋1995「北斎娘・応為栄女論-北斎肉筆画の代作に関する一考察-」『浮世絵芸術』117
  • 森銑三・野間光辰・朝倉治彦1979『燕石十種 第三巻』
  • 中嶋修2004「浮世絵類考成立・変遷史の研究」『太田記念美術館論集』2
  • 中嶋修2006「浮世絵類考系写本に残る北斎の記録」『北斎研究』38
  • 仲田勝之助編校1941『浮世絵類考』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
  • 安田剛蔵1981「北斎の娘*応為女・全伝」『季刊 浮世絵』86

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