お栄さんって何歳なの?

葛飾北斎・応為

FGOの葛飾北斎が好きな理由の1つとして北斎・応為の親子関係があります。小説を中心とした他の著作でも多く描かれており、FGOにも「父娘の絆」というスキルが設定されていますね。

これに関連して自分も北斎父娘の関係性についていくつか妄想を抱えているのですが、学術面で定着している通説からズレる内容であることもしばしば。
「妄想なんだから自由にやっちゃっていいよね!」と言ってしまうこともできるのですが、妄想するにしても通説とどのように差異が生じているのかは理解しておきたいところ。「型があるから型破り」というのは18代中村勘三郎さんの言葉らしいですが、多分そんな感じです。

今回は北斎父娘に関する自分の妄想につながることとして、お栄は何年生まれなのか・FGOで現界しているのは何歳の姿なのかといったことを考えてみました。(いつ亡くなったのかについてはあまり考えていません)

学術的にもお栄の生没年は不詳で、これといった定説はありません。だいたいこのくらいという目安はありますが、人によってまちまちです。

各研究者の論考を読んでみてその特徴を整理しつつ、FGOのテキストに見える内容も踏まえて自分なりの目安を考えてみようと思います。

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諸注意

  • []は割注を示します。
  • 和暦に加えて()で西暦を付記します。慶応以前は月のズレで西暦の複数年に跨る場合がありますが、月数の多い年で表記します。例:安政4年は1857年1月~1858年1月→1857年と表記
  • 資料は論考中の引用や翻刻版の利用が主です。(筆者はくずし字の読解が苦手(というかほぼ出来ない)ため)

お栄の生年(年齢)に関係する資料

生没年を直接的に窺えそうな記述を抜き出していきます。

斎藤月岑『翟巣漫筆』

斎藤月岑げっしんは文化元(1804)年~明治11(1878)年生没の考証家。

翟巣漫筆てきそうまんぴつが一体どのような著書なのか分かっていないのですが、これを引用した論考の抜粋部分にちょっと気になる記述が。

末女ゑいといへるも是に同じく、食事をなして飯器を洗はず、其儘にさし置く。浮世絵師ナンタクが妻となりしが、離縁を受て父のもとにあり。五十歳計。画をなして、為一が名目の板下、多くはこの娘画く。

第九冊(国会図書館蔵)より。(井上隆明1991「北斎の初期戯作と挿絵」所載)

「五十歳計」とはどういうことなのでしょう。単純に考えると執筆時点でお栄が50歳ということのような気がしますが…抜粋部分のみではあまりよく分からないのが残念。

本資料は国会図書館蔵ですがマイクロフィルム化のみでデジタル化に至っておらず。マイクロフィルム版を閲覧しに行くことはできますが、書誌情報を見ると「書写資料」となっているのでたぶんくずし字だよなあ…

木村黙老1845『戯作者考補遺』

おおさわ1978の引用で知った資料。

木村黙老は安永3(1774)年~安政3(1856)年生没の政治家。高松藩家老だそうで、曲亭馬琴の親友だったらしい(香川県HP)。

娘ありて柳川重信に嫁せしが離縁して今家にあり此婦人も畸人畸にて当時[弘化二年]三十歳余画をよくし且至て器用なり

<※欄外上部>爰に此娘を柳川重信に嫁したる人とせしは伝聞の誤なり北斎女子三人有、重春に嫁せし女は早世にて死したり二女も他へ嫁したりと云今内に在て爰にいふ所の女子は第三女也

国本出版社、昭和10年。(影印本)

お栄は弘化2(1845)年に30歳余すなわち生年は1810年代前半ということで、最も若く見ることができる資料かと思います。

なお本文では柳川重信に嫁いだ北斎の娘=長女お美与のこととして記述するも、欄外にて三女=お栄のことだったと訂正。

馬琴と親交が深かったとのことですが、文中で「伝聞」と言っているのを考えると北斎とはそれほど交流がなかったのかなという印象。(印象。調べてない)

なお途中で「重春に嫁せし」という言葉がありますが、重春(柳亭重治)は重信の弟子(in大坂)で、北斎一家との婚姻関係とかはないはず。
直前ではきちんと重信と書いているので、誤認ではなくただの書き間違いかなと思います。

飯島虚心1893『葛飾北斎伝』

人物・経歴・逸話・作品・人間関係など、葛飾北斎全般に焦点を当てた研究書。実地探訪等により北斎との縁があった人物からも取材するなど、情報量は随一。

伝聞調だったり肝心なところの情報が欠けていたりしますが、著書の終盤で家族など北斎周辺の人物にも言及。そのなかでもお栄の項は一番充実しているように思います。

北斎翁の死するや、阿栄悲嘆座に安ぜず。これより居所を定めずして門人或いは親戚の家に流寓し、後親戚加瀬氏の家に居りしが、一日出てゝ行く所を知らず。一説に、阿栄、加瀬氏の家を出でゝ、加州金沢に赴きて死す。年六十七。又一説に、徳川旗下の士某の領地、武州金沢の近傍に到りて死せり。又一説には、信州高井郡、小布施村、高井三九郎の家に到りて死せりと。詳ならず。白井多知女の遺書には、安政四年の夏、東海道戸塚宿の人、文蔵といへる者阿栄を招き画を請ふ。阿栄筆を懐にし、出て行きしが、夫より知れずなりしと。

岩波文庫1999、312頁。

お栄の死亡について様々な説が並んでいます。

  1. 加賀国の金沢で亡くなった(67歳)
  2. 武蔵野邦の金沢で亡くなった
  3. 小布施村で亡くなった
  4. [白井多知遺書より]安政4(1857)年に戸塚の人に招かれて出て行き消息を絶った

年齢という面では1つ目の説と4つ目の説にヒントがあります。
ちなみに白井多知はお栄の弟(?)である加瀬崎十郎(多吉郎)の娘。つまりお栄の姪です。

一方梅彦氏(四方梅彦)からのの伝聞による情報もあります。

梅彦氏曰く、余が初めて北斎翁の所に到り、一面せしは、実に二十歳の時にして、その頃、阿栄は、四十歳前後なりし。[梅彦氏は、今七十有余歳なり。]

岩波文庫1999、313頁。

梅彦氏はその著作からある程度生没年を割り出せるらしく、そこを起点として逆算しやすそうです。

飯島虚心1893『浮世絵師便覧』

応為ヲウ井】葛飾北斎の娘、美人画に巧なり、○天保、慶応

国書刊行会1992『書画人・浮世絵師便覧』所載

「天保、慶応」が主要な活動期間を示すとしたら、少なくとも慶応年間までは生きていたということですね。

相見香雨樓1916「北馬と文晁と北斎」

お栄の生没年を直接的に示す資料ではないのですが、最近の論考では北斎の結婚事情から傍証的にお栄の生没年を導き出そうとするパターンが基本形。その重要資料です。

前田香雪という、天保~明治期に生きた人物の談話を文字に起こしたものです。

蹄齋北馬は、本名を有坂五郎八と云ひ、もと幕府の御家人なりしが、性世事を厭ひ、夙く家を弟某に譲りて、若隠居をなせり、少しく文字を知り、画を好みしが、家きはめて貧しかりしかば、葛飾北斎の門に入りて、雑画をゑがきて活計のたすけとせり、その入門せし頃は、恰も北斎が妻を喪ひて、一人の娘と暮し居たる頃なれば、北馬は北斎の家に書生のように入込みて、画法を学び、傍ら火事の手伝ひなどもしてありしが、技量も倍々進みて、非凡なりしかば、北斎も秘蔵の弟子として愛したり、…

『浮世絵』19号、浮世絵社刊。(国立国会図書館蔵)

「北馬入門時には先妻が亡くなっていた」点が特に重要。

個人的には、「一人の娘と暮し居たる」も結構気になっています。

  • 「一人の娘」が長女→次女はどこに?(赤子だったから数えなかったとか?)
  • 「一人の娘」が次女→長女はどこに?(既に嫁入りして家を出ていたとか?)
  • 長男はどこに?(中島家を継いだらしいので、養子入りで既に家を出ていたとか?)

解釈次第で先妻との1男2女が生まれた順番や時期が変動しそうだなと。

安田氏はその著作(後掲)で「一人の娘・・・・」と強調表示していたのですが、結局この点への言及はありませんでした。ちょっと残念。

岩崎長思1923『高井鴻山小伝』

おおさわ1978の引用で知った資料。

岩崎長思は明治11(1878)年~昭和35(1960)年生没の郷土史家。高井鴻山没後50周年を機会として編纂された著作のようです。

弘化二年北斎再び尋ね来りし時、間もなく帰来を志す、鴻山其故を尋ねたるに「余は一女あり、之を東都に遺し置けり。余は彼女をして東都に独居せしむるに忍びず」と。鴻山因て帰って其女を携へ来らんことを勤む。北斎諾して江戸に帰り、其娘を伴ひ来り高井家に寓せしむ。里人北斎の娘といへば奇麗なる若き娘ならんと噂し合へるに連れ来るを見れば六十位の老婆にて風姿甚だあがらず。其案外なるに驚く。名はお栄。

上高井教育会刊行、47頁

お栄は弘化2(1845)年に60歳くらいということで、生年は天明5(1785)年頃に遡ることになります。一番遠くまで遡るものかと。

おおさわ氏が引用するのはここまでなのですが、原文を読むと「画道に志し父を助け名声あり。お栄に一子あり。鴻山其世話をなし大に困りたりといふ。」という文が続いているのにたまげました。
真偽不明ですしお栄の生没年を探るという意味では関係ない文脈だから外したのかな…

関根只誠「浮世画百家伝」

関根只誠しせいは文政8(1825年)~ 明治26(1893)年生没の人物。本書の原稿は明治18(1885)年に出来上がっていたらしい。

栄女が没年詳ならずといへども、安政二三年の頃、加州侯寡婦の老衰を愍み、扶持せられしが、遂に加州金沢に於て、病に罹り没せしよしにきゝぬ。

六合会1925刊行、111頁

安政2~3(1855~56)年時点では加州侯の庇護を受けていたようです。文脈的には亡くなった年もそう離れてはなさそうな印象を受けます。

また、この記述は飯島『北斎伝』にあった加賀国金沢で死亡した説と符合します。同書の白井多知遺書(安政4年に加瀬家を発った)とは時系列が合わなそうですが…。
いやでも、扶持されるだけなら加瀬家滞在中でも可能でしょうか?加賀藩の資料とかで調べれたら面白そう。

お栄の生年に関する論考と雑感

井上和雄氏の論考

①未発表「北斎年譜」(永田生慈2016「井上和雄稿「北斎年譜」翻刻」『北斎研究』56号所載)

井上氏が雑誌で発表していた論考の下敷きとなっている資料であること・その論考にない情報も散見されることから、永田生慈氏が紹介。(判読が困難という理由で翻刻による紹介がなされていますが、翻刻の方が個人的には読みづらい…。一部掲載されている手書きの原本を見た感じ全然読めそうなので、影印にして欲しかった感はある)

寛政3年の項の欄外にて「栄女(応為)が生まれしハ此の前後両三年間の一なるべし。」とあり、その±3年、すなわち天明8(1788)年~寛政6(1794年)生まれと想定しているようです。
理由は書かれていないので分かりませんが…

②1929「北斎研究断片(四)」『浮世絵志』第4号

『葛飾北斎伝』にある没年齢及び白井多知の遺書の記述を踏まえ、「安政4(1857)年に67歳で没した」と仮定して逆算。その場合は寛政3(1791)生まれで北斎が32歳の時に相当すると述べています。
先ほどは同氏が寛政3年±3年をお栄の生年と想定した理由が分かりませんでしたが、こちらにて記述がありました。

ただし白井多知の言う「安政4年の夏にお栄が出ていった」ことと「お栄が67歳で亡くなった」ことは直接的に繋がる文脈ではなく、自分は安政4年=お栄の没年とは必ずしも言えないと思っています。
井上氏本人も「仮りに」と前置きしているので、正確な論とはならないことは承知していたのではないでしょうか。

江戸建雄1976「葛飾応為の生没について」『浮世絵芸術』47号

『葛飾北斎伝』にある梅彦氏の口伝から推定。

  • 『葛飾北斎伝』が書かれた明治26(1893)年に梅彦氏が70余歳、同氏が北斎を初めて訪ねたのは20歳=約50年前すなわち天保10(1839)年頃で、そのときにお栄は40歳前後。
  • 天保10年頃にお栄が40歳前後とすると、67歳で没するのは慶応末年頃といえる。『浮世絵師便覧』の応為の項に「○天保、慶応」とあることにも言及。
  • 以上からお栄は寛政12(1800)年頃~慶応2(1866)・3(1867)年頃の生没と推定
  • 露木為一筆「北斎翁仮宅写生の図」にも言及。これは天保13(1842)年のものとし、描かれる北斎やお栄の年齢もそれらしく見えると述べる(北斎82,3歳・お栄40歳余)。

梅彦氏の証言をもとに逆算する方法には賛成ですが、同証言のみだと多分にズレを含みます。

まず「梅彦氏は、今七十有余歳」の「有余」でずれ、さらに「その頃、阿栄は、四十歳前後」でもずれます。

また、「今七十有余歳」の「今」が刊行年とイコールであるかも怪しい。岩波文庫版『葛飾北斎伝』における鈴木重三氏の解説を見ると、同書の「早期未完成草稿転写本」が現存し、その草稿本の中盤くらいの部分は明治23~25年に執筆されている様子が窺えるとのこと。飯島氏が「今」と書いたのが何年だったのかについても2~3年のずれが生じえます。

まとめると

  • 「今七十有余歳」の「今」は実のところいつか(明治23~26年くらい?)
  • 「今七十有余歳」の「有余」は実のところ何歳か(71~74歳くらい?)
  • 「四十歳前後」は実のところ何歳か(38~42歳くらい?)
  • (もはや難癖だけど)「七十有余歳」「四十歳前後」は数え年?

ということで最大限なら明治23(1890)年から(74-20)+42=96年遡って寛政6(1794)年、最小限なら明治26(1893)年から(71-20)+38=89年遡って文化元(1804)年。
江戸氏はかなり絞った書き方をしていますが、梅彦氏の伝承だけだとお栄の生年は1794~1804年くらいで約10年の幅があるということですね。

なお、江戸氏がさらに加えた推定・補足はあまり妥当では無いかなと思っています。

まず『浮世絵師便覧』の応為の項に「慶応」とあることに言及しつつ没年を慶応と推定する点。「天保、慶応」が生没年を想定した記述だとは思えません。他の絵師を見ると元号1つしか書いてないパターンも多いですし、「慶応」を没年と捉えるなら対応する「天保」はどう扱うんだっていう。
ただし「慶応年代に没したかはともかく、その時期にお栄は生きていた」と捉え、前述の幅を狭めることはできます。没年が67歳である前提なら、慶応年代に生存しているために遡れる生年は1798年までです。

また、「北斎翁仮宅写生の図」への言及も余計かと。「絵を見てその人物が何歳だと思うか」なんてし完全に主観でしょう。
というかこれを容認するなら、今回検討したいFGOにおけるお栄の年齢だって「黒星紅白先生の描いたお栄は○歳っぽいからそれで!」と一言で終わってしまいますし。(ていうかそういうの設定資料でありそう…)

おおさわまこと1978「北斎に娘お栄の参加 秘画作名品帖「絵本つひの雛形しらべ」ー英泉作画の誤認を糾すー」

お栄の生没年をテーマにした論考ではありませんが、主張の根拠として使うためお栄の生没年を考察されています。

飯島虚心(北斎伝)、関根只誠、木村黙老、岩崎長思らの記述を検証し、岩崎長思の記述を妥当として寛政元(1789)年頃がお栄の生年ではないかと推測。さらに2つの論点を加えて補強を図っているようです。

かなりしっかり根拠を挙げて考察していますがそもそも他の主張を補強するためにお栄の生没年に言及しようとしているため、「お栄は○年生まれであって欲しい」という思惑から議論を始めているであろうことは注意点。

論点①蹄斎北馬との関係

相見香雨樓1916にて記述される蹄斎北馬・北斎・文晁のエピソード(前田香雪談)を検証。

  • 「その入門せし頃は、恰も北斎が妻を喪ひて」より、北馬が北斎に弟子入りしたのは北斎の先妻が亡くなった頃⇒お栄は後妻の子なので、誕生はこれより後
  • 「北馬は北斎の家へ書生のやうに入込みて」より、当時の北馬は「書生のよう」=それなりに若いはず。(北馬は明和6(1769)年生と想定)

以上から、お栄が寛政元(1789)年頃生まれなら妥当ではないかとしています。

おおさわ氏が述べる課題は、あくまで北馬が20歳前後で弟子入りしてもおかしくないというだけで、実際北馬がその頃に弟子入りしたという証拠がないこと。(北馬号は寛政11(1799)年に初出なので、それ以前に弟子入りしていることは確か)

個人的にも「書生のよう=若い」という決めつけは疑問符。資料の文脈的にも「書生のよう」というのは北馬の励む様子を例えた表現で、年齢感を示すのだと言われるとちょっと。
それで弟子入り年を特定するのはどうかなあ…と思います

論点②「群馬亭」「君馬亭」落款について

現代では「群馬県」という行政地域がありますが、この名称は古代に用例があるものを明治時代に入ってから引っ張り出したものらしい(群馬県HP)。
したがって江戸時代には地名として定着しているわけではなく、何か他の意味を見出しうると言えます。

おおさわ氏はこれらの号が子誕生を祝するものである(君馬きみうまる=君生きみうまる!)と解釈し、その落款が見られる作品に注目します。

  • 黄表紙『親譲鼻高名』…天明5(1785)年→先妻の男子富之助が生まれる
  • 擦物「寅南呂」…寛政6(1794)年→後妻の男子多吉郎が生まれる

お栄は多吉郎の姉なので、寛政6(1794)年より前に生まれたはず=寛政元(1789)年頃は妥当じゃないかということのようです。

自分としては「群(君)馬亭」号の意味の妥当性については何とも言えないので、これについてはそういう考えがあるんだなあという感じ。

安田剛蔵氏の論考

著書『画狂北斎』(1971年)にて北斎の半生(北斎期まで)や家庭環境について考察。

お栄の生年については、飯島『北斎伝』にある四方梅彦の談話が妥当だろうとしています。

生川春朗『近世女風俗考』を参照して梅彦は文政5(1822)年生まれと想定し、これを起点に計算してお栄は享和2(1802)年くらいの生まれと推定しているようです。
ただし、その次の頁では寛政9(1797)年にお栄は1歳(数え?)と仮定しています。えー。

当書ではそれほどお栄の生年を主張している印象は受けませんでしたが、周辺情報が結構詳しめに考察されていました。

論点①北斎の初婚

以下2点より、北斎が先妻と結婚したのは天明6(1786)年であるとしています。

  • 長女お美与と結婚した柳川重信(天保3年(1832)年に46歳で没)を起点として計算
  • 春朗期の天明5,6年にだけ使用された号「群馬亭」が結婚を背景としている

個人的には前者はそんなに…という感じ。柳川重信の年齢を踏まえて長女お美与の年齢を適当に設定し、長女お美与の年齢から北斎の結婚年を適当に設定している、という文脈なので。
「そうだとしても不自然ではないですね」という程度。

後者はなるほどという感じはあります。「群」を「君」と「羊」に分けたうえで号の意味を考察し、

  • 羊は「美しい」の意
  • 君は「夫人」の意
  • 馬は「午」に通ずる
  • 亭は「いたる」と訓ずる

ことから「美しい夫人が午年にやって来る」(又は馬に乗ってやって来る)と解釈。天明6年の干支が丙午なので、この年の結婚を祝する号なのではという説です。

天明5年時点で既に同号を使用しているのは、その年の時点で結婚話はあったけど待機状態だったから。江戸時代以降「丙午年生まれの女性」に対するネガティブな迷信があるようで、結婚翌年に女性が生まれるとよくないと考えたのではとのこと。(ちなみに2026年が次の丙午。前回の1966年も出生率が谷になっており、令和がどうか分かりませんが昭和にも残っていた迷信です)

なお寛政6(1794)年夏に1度だけ使用例のある「君馬亭」にも言及。こちらは先妻が亡くなったことを暗示しているのではと述べています。

おおさわ氏の論考では「群馬亭」「君馬亭」の使用例に対する言及がなかったので、安田氏の論考でそれを示してもらえたのがありがたい。特に使用例が1回だけという後者は図版も見てみたいと思いました。(井上氏の論考で作品の存在に言及されるのみで、現在は行方不明のようです)

羊・君・亭の意味は手持ちの辞書(漢辞海)だと該当するものがありませんでしたが、大漢和辞典にて似た意味を見出すことが出来ました。(羊→い、君→妻、亭→至る)

大漢和辞典はあくまで中国古典の用例に基づくので江戸時代日本はどうなのかとか、「~亭」は落語家とかの亭号ではないかとかの疑問はありますが、安田氏の「群馬亭」考察は一定の説得力はありそうと思いました。

論点②「カピタンとの取引」の逸話

「絵を納品するときになって注文時の半値を提示されたので北斎が注文主のカピタンにキレた」エピソードがあり(『古画備考』)、ここに北斎の妻が登場します。
『古画備考』ではこれがいつのことか分からないのですが、外山卯三郎氏の研究により寛政10(1798)年とするのが定説のようです。

ここで先ほどおおさわ氏の項でも挙げた、蹄斎北馬弟子入りのエピソードを組み合わせます。
北馬入門時には先妻が亡くなっていること、北馬の入門は寛政10(1798)年以前であることから、『古画備考』に見える妻は後妻であるというわけです。

したがって北斎は寛政10(1798)年時点で既に再婚しているということですね。

安田氏は論点①で先妻との死別を寛政6(1794)年と設定しており、こちらにも矛盾しません。

個人的にもこれについては納得という感じです。
参考文献一覧がなくて外山卯三郎氏の論文が何なのか分からず直接確認できていませんが、当書にて内容の要約が記述されていたので大要は理解しました。

論文「北斎の娘*応為栄女・全伝」にて

著書の10年後、お栄に焦点を当てた投稿。

提示する根拠は前著と同じでその再録に近いですが、結論としてお栄の寛政10(1798年)年生まれを提唱しています。なんか微妙にズレましたね。

論文「〔狂歌国盡〕半紙本一冊の刊期」(1980)にて

〔狂歌国盡〕はお栄の初めての作品とされる絵が載っている狂歌集です。

論考中にて安田氏は、収録されている狂歌の詠み人の没年を考えると文化7(1810)年の刊行であると述べています。

お栄の生年を推定する直接の論拠として用いられたことはありませんが、少なくとも下限を文化7(1810)年とすることはできるかと思います。
その年に絵を描いていることや落款「栄女筆」がお栄本人によるものであるとする場合、下限はさらに引き上げられるはずです。

久保田一洋2015『北斎娘・応為栄女集』

北斎・応為研究の現役トップランナーだと思います。FGO葛飾北斎の実装が2018年なので、この著作は間違いなくチェックしているはず。必読。

久保田氏は1995年にもお栄に焦点を当てた論文を投稿しています(『浮世絵芸術』117号)が、いずれもお栄の生年は享和元(1801)を目安として設定しています。
根拠はいずれも同じで、当書においては周辺情報との関連性も検証しています。

論点①お栄生年の目安

飯島虚心2著の情報を基準としています。

  • 67歳で亡くなった(北斎伝)
  • 活動期間が慶応まで記される(浮世絵師便覧)

慶応年間は1865~1868年で、ここから(数え年で)逆算すると1799~1802年の生。「打算的だが」と断りつつ、お栄の生涯を追うのに数えやすい1801年を生年として設定したようです。

論点②周辺情報との関連

蹄斎北馬の入門、カピタンとのエピソードに関する見解。

久保田氏は先妻が亡くなった時期を寛政10(1798)年5月~8月の間と設定しています。カピタンとのエピソードに登場する妻は先妻の方ということですね。
その根拠は北斎の改名(宗理→北斎)が同年8月であること。宗理を名乗った期間が3年半と短く、また、改名時期が年の区切りではなく8月という半端な時期であることは、改名のきっかけが先妻との死別にあるのではないかという論です。

ここから先妻の一周忌→後妻との再婚→お栄の生誕、すなわちお栄が生まれるのは早くとも寛政12(1800)年夏以降という流れです。設定されている目安(1801年生)とも矛盾しません。

先妻との死別時期のヒントを北斎の号に求める点は安田氏と同じですが、着目した号が異なることで差が生じているようです。

ただし個人的には疑問符。寛政8年頃から号の一部として「北斎」の語が見え始めており、改名は先妻の死という急な要因によるものではない印象。永田生慈氏も宗理→北斎の改名は事前に準備がなされていたと述べており(永田2000)、これに同意したいところです。
まあ事前に準備はしていたものの改名時期は特に決まっておらず、先妻の死が直接的な契機となった…という説明もできると思いますし、そう否定的な疑問符ではありません。

各資料・論考を踏まえて

以上お栄の生年に関する各資料・論考についてダラダラと書いてきましたが、論考を改めて整理するとこんな感じ↓

研究者お栄の生年論拠(キーワード)個人的所感
井上和雄氏寛政3(1791)年北斎伝:安政4(1857)年・67歳2キーワードの直接的な結び付けはどうか
江戸建雄氏寛政12(1800)年頃北斎伝:四方梅彦談話これ単独だと±5年くらいはズレうる
おおさわまこと氏寛政元(1789)年前田香雪談話(北馬入門)、群馬亭北馬入門時期に疑問あり
群馬亭解釈で安田氏と競合
安田剛蔵氏寛政10(1798)~享和2(1802)年北斎伝:四方梅彦談話、群馬亭、前田香雪談話(北馬入門)、カピタン逸話群馬亭解釈でおおさわ氏と競合
北馬入門・カピタン逸話検証で久保田氏と競合
久保田一洋氏享和元(1801)年北斎伝:67歳、浮世絵師便覧(慶応)、前田香雪談話(北馬入門)、カピタン逸話、宗理北馬入門・カピタン逸話検証で安田氏と競合

当然かもしれませんが、時代の新しい研究ほどキーワード(着眼点)が増えて論も強固となっています。
昔の研究だと1790年前後という設定も見られましたが、近年は1800年前後というのが主流になりつつあるのかな?

まあ自分もおおさわ氏と同じく、「○年生まれであって欲しい」という思惑が生じる可能性は大いにあります。1790年前後という設定もできなくはないということは頭に入れておきたいところです。

純粋に思惑無しで考える場合、久保田氏が着目した「67歳」と「慶応」のキーワードは自分も気になっていて、そうなると1799年より前を想定するのは厳しいよなあと思っています。
さらに〔狂歌国盡〕。自分の主観MAXですが、あの絵を描くならどんなに若くても満3歳を下回るとは思えません。とすると下限は1807年。

総合して、自分の考える想定範囲は寛政11(1799)~文化4(1807)年くらいでしょうか。下限はもう2,3年引き上げてもいいと思いますけど。

その他、各氏の論考を踏まえて自分のなかで課題となっているのは以下。

  1. 北斎先妻の没年、後妻との再婚年
  2. 加瀬崎十郎(多吉郎)ってお栄の弟ってことでいいよね?

1.北斎先妻の没年、後妻との再婚年

各者各様にアプローチしていますが確定には至っていません。

  • 群馬亭(天明5(1785)年)…先妻との結婚or先妻との男子富之助誕生
  • 君馬亭(寛政6(1794)年)…先妻との死別or後妻との男子多吉郎誕生
  • 宗理→北斎改号(寛政10(1798)年)…先妻との死別

といった説が展開されています。どれもなるほどとは思うんですけど、どれとも言い難い。

さらに言えば、個人的には君馬亭は後妻との結婚を示すという説もありなのでは?と思ってもいます。

寛政6年の干支は甲寅なので馬と全く関係ありませんが、そこは群馬亭という前例が既にあるのでそれを踏襲したということで。
そして「群」が「君」に変化した点については、安田氏のように「羊」を「美しい」と解した場合、それが抜けたことで「今度の妻は前の妻ほど美しくはないが…」という含意を見出せないかなと。お栄は顎が張っていてあまり美人ではなかったといいますし、母もそれほど美人ではなかったと考えるとちょっとは筋が通りませんかね?

ただでさえ諸説乱立しているところにもう1つ放り込んでしまうことになりますが、妄想のための生年設定により融通を利かせられるということで笑

2.加瀬崎十郎(多吉郎)ってお栄の弟ってことでいいよね?

小説漫画といった各種創作やこれまで読んだ各論考においても、多吉郎はお栄の弟ということになっています。

すっかり慣れちゃって当たり前のように思っていたのですが、そういえばこれって何をもってそういうことになっているんだっけ?という疑問。

長男次男・長女~四女という飯島『北斎伝』の記述もあるので、同性の兄弟姉妹同士では生まれた順がはっきりします。
しかし長男富之助と長女お美与のどちらが長子か分からないのと同じく、多吉郎とお栄のどちらが年長なのかって自分はあまりよく分かっていないんですよね…。根拠を示している論考も見てない気がするし。

どの話でもお栄が姉であることは大前提になっているのでひとまずそういうことにしておきますが、どこかで手がかりに遭遇しないかなと思っています。

FGOに登場するお栄さんについて

それではゲームに登場するお栄さん(フォーリナーの方)は何歳なのか。
何年生まれなのかという考察は前述したところまでで、こちらでは「どの時期のお栄さんなのか」を考えることが主眼になります。

これについてもマテリアルやイベントテキスト各種を読んで考えてみていますが、正直よく分からなくなってきました…(結論が出せないのでいったん整理して投稿しちゃえという感じではある)

いくつか想定(妄想)しているうち、基本になるのは天保2(1831)年頃のお栄さんです。

久保田氏と同じく1801年生と考えると、31歳(数え)ということになります。
自分が現時点で幅をつけて考えている1799~1807年の範囲だと、25~33歳(数え)ですね。

特に奇をてらったものはないと思いますが、自分の妄想は次のとおり。

  1. 「葛飾北斎」の全盛期の姿(通常パターン)
  2. 「葛飾北斎」の全盛期の姿(特殊パターン)
  3. 「葛飾応為」の全盛期の姿

これらについて考えていることを整理します。

0.前提(サーヴァントについて)

Fate世界のサーヴァントは当人の全盛期の姿で召喚されるのが基本らしいです。

ただし別世界・幼年期・別側面など、例外も様々。
さらに召喚された姿によって自己認識にも差があります。(幼年期サーヴァントは自らのその後について知識はあるものの実感を持っていない、とか)

葛飾北斎はそもそもが「2人1組」という例外。お栄さん個人に注目するとどうなのか、妄想が枝分かれしていきます。

1.「葛飾北斎」の全盛期の姿(通常パターン)

一番考えやすいパターン。それでいて「葛飾北斎としての全盛期はこれだけど葛飾応為としての全盛期は別にある」と単独顕現への期待も残しやすい夢のあるパターン。

「葛飾北斎」の全盛期がいつかと問われるとかなり困りますが、宝具が「冨嶽三十六景」ですからその時期ということで天保2(1831)年頃が有力。

ちなみに水着(セイバー)の葛飾北斎ですが、こちらの宝具「諸国瀧廻り」も「冨嶽三十六景」とほぼ同時期(天保4(1833)年頃)です。

浮世絵師よりも”仙女”になりたい、と夢見た少女時代の応為がそのまま成長した姿。

葛飾北斎〔セイバー〕プロフィール2


「そのまま成長した」とあるので、セイバーのお栄さんも英霊として抽出された時期はフォーリナーと同じてよいでしょう。ただし考え方や見た目は少年期のものだと思うので、何が成長したのかはよく分かりませんが。

2.「葛飾北斎」の全盛期の姿(特殊パターン)

前項は「通常パターン」と付記しましたが、一緒に召喚されたお栄さんの状態については2つのパターンがあるのではと妄想しています。

  • 通常のサーヴァントと同じ状態で、自らの一生とその事跡についての認識・実感がある。
  • リリィ系サーヴァントと同じ(似た)状態で、召喚された姿より後の事跡についての認識・実感がない。

前者が通常パターンで後者が特殊パターン。特殊パターンの可能性を考えてみます。

メタ的には、特殊パターンはプロフィールにてその旨を明記されることが多いです。葛飾北斎〔フォーリナー〕のプロフィールにはそういった記述はないので、じゃあ前者じゃないかと言うこともできます。

しかしプロフィールや各イベントのテキストを読んでいて、現状ははっきりどちらと言える材料は無さそうと思っています。はっきり言えないならどっちと言ってもいいのだ!というワガママ発想。

まああくまで「どっちとでも言える」に留まりますが、どちらとするかによって影響のある事柄があります。それが北斎・応為の関連作品です。北斎の関わるイベントが割と定期的に供給されるので、FGO内で言及のある作品がちょこちょこ増えていっています。

  • 「関羽割臂図」(「イマジナリ・スクランブル」にて)
  • 「吉原格子先之図」(幕間「鬼灯の朱夏」にて)
  • 『兎園小説』(「水怪クライシス」にて)
  • 『椿説弓張月』(「南溟弓張八犬伝」にて)
  • 「琉球八景」(同上)

馬琴或いは北斎の作である後者3つについては制作時期が明らかになっています。いずれも「冨嶽三十六景」や「諸国瀧廻り」とほぼ同時期またはそれより前です。

一方で応為作の「関羽割臂図」と「吉原格子先之図」は制作時期が確定していないのですが、各イベント内のお栄さんの様子を見ると、いずれも自らが描いたものとしての認識・実感があるように思います。

「虚数大海戦イマジナリ・スクランブル」より、「関羽割臂図」について。
「鬼灯の朱夏」より、「吉原格子先之図」について①
「鬼灯の朱夏」より、「吉原格子先之図」について②

お栄さんが通常パターンであれば、両作への認識・実感はあって当たり前。
ところが特殊パターンだったとすると、両作への認識・実感がある=両作の制作時期は「冨嶽三十六景」等より前設定ということになります。

個人的にこの違いは大きいです。できれば後者である方が、今後突き詰めたい自分の妄想にとっては都合がいいです。多分。
定説はどちらも「冨嶽三十六景」より後っぽいですけどね…。これについてはまだ勉強中なので稿を改めることとします。

今後FGOで「葛飾応為」が単独顕現する展開とかあったら設定がハッキリしそうなんですけどね。

ところで単独顕現について余談ですが、今のお栄さんが「葛飾北斎」の全盛期に引っ張られて召喚された姿=お栄さん本人の全盛期として別の姿で召喚できるかもしれないという妄想をしちゃうのは前項冒頭のとおり。

であれば単独顕現するのはもっと年を重ねた姿でしょうし、さらに今のお栄さんが自分にとって都合のいい状態(特殊パターン)とすると、この時点ではまだ認識のない作品が宝具となる可能性も。

さすれば「関羽割臂図」「吉原格子先之図」は既に認識がある=他の作品ということで、応為の作品で自分が一番好きな「夜桜美人図」が宝具候補に浮上。これは楽しい。

まあこんな都合のよい展開はないにせよ、一昨年冬~昨年夏のような供給が今後も欲しいところ。


オーディール・コールの対象にフォーリナーが含まれていたら、今年も何かしらのテコ入れを望めそうで激アツだったのですが。

3.「葛飾応為」の全盛期の姿

霊基としては「葛飾北斎」ですが鉄蔵とは別に、お栄さんはお栄さんで自分自身の全盛期としての姿で現界しているという考え。

そもそも2人1組のサーヴァントなのにそれぞれの時期が違うってのは無いでしょという身も蓋もない考えもありますが、それはひとまず置いておきます。

お栄さん個人の全盛期がいつとして登録されるか、即ち宝具が何かは分かりません。

FGO的にはやはり「吉原格子先之図」を描いた時期が最有力でしょうか。幕間「鬼灯の朱夏」でパッシブスキルとして使っていますし、宝具になるかも。
ただし「スキル」としての使用なので、宝具は別かもしれません。(先ほども言いましたが個人的には「夜桜美人図」が一番好きなので、なんとかこじつけたいのです。)

「吉原格子先之図」も「夜桜美人図」も描いた時期が確定しないので年齢感は分かりませんが、自分の妄想ルート上は「それらを描いたのはいつ(何歳の)頃か」ということが大事。

「この見た目年齢のときに〇〇(宝具となった作品)を描いた」という設定が足されるのは大きいんですよねー。

メモ:「葛飾北斎体験クエスト」の設定について

他の選択肢を提示する根拠として整理していたのですが、結局選択肢として提示はできないなと思ったので没。
しかし今後何かの手がかりになるかもしれないと考えると消してしまうのは勿体ないので、ここに置いておきます。

葛飾北斎が初登場し英霊の座に加わるきっかけとなった本イベントですが、マスターの夢ということもあってかカルデアのサーヴァントが現地人を名乗ったり水戸ジャガ門御一行が登場したりと、結構トンデモ設定の雰囲気があります。

しかし実はジャガ門御一行以外の人物や出来事は時期が近く、総合して1833~1837年の間と設定しても矛盾が少ないです。「冨嶽三十六景」「諸国瀧廻り」に近いですね。

冒頭「回向院での布袋描き」時期不明
豊国と広重の密談で言及した逸話「立田川の紅葉」徳川家斉の代(=天保8(1837)年より前の出来事)
BBが着せられそうになった役柄「遊女墨染」歌舞伎「積恋雪関扉」。初演は天明4(1784)年
術ギルの役柄「遊び人の金さん」遠山景元(寛政5(1793)年~安政2(1855)年)
山場「歌川広重との競演」逸話は無い(じゃああったことにしても矛盾しないよね!)。「東海道五十三次」は天保4(1833)年。

唯一矛盾しうるのは回向院の出来事でしょうか。虚心『北斎伝』曰くその時は画号を「錦袋舎」としていたらしく、それは文化2(1805)年~文化6(1809)年という説明を見かけたので。

あと自分が注目したこととして「父の死」に対するお栄さんの反応を見れる描写があるのですが…

「江戸の初夢 カルデアの正夢」より①

この反応を見ると「北斎の死を実感していない」ように見えます。つまり特殊パターン(リリィ系)のような自己認識を持っているように思えます。

「江戸の初夢 カルデアの正夢」より②

でもすぐ後には「また」と言っています。こっちは「一度北斎の死を経験している」、つまり通常パターンのように思えます。どっちなんだい状態です。

終わりに

昨年の秋ごろから書いたり消したりしていた本記事ですが結局考えがまとまりきらないまま2023年が半分終わろうとしていたので、資料探し及び考察(妄想)がちょっと停滞した段階で意を決していったん全部吐き出してしまうことに。
さらに本文を書ききった後もぐだぐだしていたら7月が終わろうとしているわけです。FGO8周年が目の前だなー楽しみだなー()

年始の日記で「準備段階的な位置づけの記事を2月に1本投稿したい」と書いてましたが、本記事はその次の段階、調べたいテーマのうち最初の1つです。「準備段階的なやつ」は頓挫しました。(本記事内に見えるFGO関連の記述はその一部)

現時点で調べたい(妄想を広げたい)テーマは最大目標のものを含め4つ(最大目標ルートが3つ+他のが1つ)ほどあるのですが、今年中にもう1つくらいまとめられるかしら…?まああんまり無理には急がないようにしたいと思っています。仕事の勉強もしたいし。

個人的に初めての試みながらいつものように冗長な文章になってしまったなと反省しているところですが、ここまで読んでくださった方がいたら感謝です。ろくでもない駄文を読まされたと怒る方がいたら全力で謝る準備はしておきます。

何かしらに抵触して投稿が禁じられるとかでもなければ、今後最低4本は似たような妄想を展開すると思います。よろしくお付き合いください。

一応最後にまとめです↓

  • 近年の論考的には、お栄は1800年頃に誕生したというのが主流っぽい。一応1790年前後くらいまでは選択肢にできなくもない。
  • 投稿主は1799~1807年で考え中。
  • 投稿主はFGOのお栄さん(葛飾北斎)は1831年頃の姿だと思っている。
  • 投稿主はFGOのお栄さんはリリィサーヴァントのような状態の自己認識だと今後の妄想最大目標に都合がいいと思っている。

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