柳亭種彦撰 前北斎為一図「鎌倉江ノ島大山 新板往来双六」について

葛飾北斎・応為

本年6月20日(火)~8月27日(日)の間、すみだ北斎美術館にて「北斎 大いなる山岳」の企画展が行われていました。

後期展示(7月25日(火)~8月27日(日))は夏休みと被ることもあって、平常時の5倍くらいは人が入っていた印象です。人混み嫌いな自分にはつらかった…

特に隅田川花火大会の日(7/29)とか、花火大会との因果関係があるのか分かりませんが夕方になってからの入りが異常。入口の様子を見て即座に入館を諦めました。後期のみ展示の作品でじっくり見たいものがあったのに…

そのじっくり見たかったものというのが「鎌倉江ノ島大山 新板往来双六」です。

ちょうど今は北斎の旅行について調べているのですが、その視点から観賞できる作品として興味深く感じました。

今回は特にお栄さんと絡めた話にもならないので寄り道になるのですが、少し掘り下げてみたのでまとめておきます。

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作品概要

現代においてなじみ深い双六は「絵双六」と言い、江戸時代に普及したそうです。

なかでも各地への旅行を主題としたものが「道中双六(名所双六)」で、本作品はその1つ。『偐紫田舎源氏』などで知られる柳亭種彦の編集のもと葛飾北斎が絵を担当しました。

北斎が手がけた唯一の道中双六。日本橋を振り出しに、鎌倉、江ノ島、大山を巡り、長津田や三軒茶屋を通って再び日本橋へ戻るという、当時の江戸の人々が親しんだ参詣と遊山の経路が示されている。『正本製(せいほんじたて)』という本の巻末に掲載された宣伝文に、北斎がかの地を往来したときに写した風景を元としたとあり、細かい描写が見どころといえよう。当館初出品の作品である。

すみだ北斎美術館企画展「北斎 大いなる山岳」展示解説より

北斎画の道中双六としては唯一のものらしく、すみだ北斎美術館所蔵版の展示は今回が初だったようです。

ただしここでしか見られないかというとそういうわけではなく、いくつかの図書館・博物館等で所蔵されています。画質の難はありますが、電子版を鑑賞することも可能。

双六の内容

人生ゲームのような一本道ではなく、モノポリーのようにぐるっと回るタイプ。何周もするわけではないですが。

日本橋を発ってタイトルのように鎌倉や江ノ島経由で大山に参詣したのち、厚木や長津田経由で日本橋に帰ります。

全52マス(日本橋を2回数えると53マス)のうち6つのマスには「泊」の印があります。6泊7日の行程を意味すると思われますが、他の道中双六を踏まえると「1回休み」のギミックマスでもあるようです。「泊」と「1回休み」のイメージが似通っていて面白いですね。

そしてゴールの際は日本橋にピッタリ止まらなければならないようで、サイコロの出目が余った場合はその分だけ逆戻り。

余りが1~4なら逆戻りはその分だけですが、5余った場合(残り1マスで出目が6)は8マス前の長津田まで飛ばされてしまうルール。4余った場合の戻り先である溝の口も「泊」のマスですし、たくさん余らせてしまった場合のデメリットが大きいというゲーム性も面白いところ。

このあたりのルールは、作品右上タイトル欄の横に書いてありました。

また双六という遊びだけではなく、本作は当時流行していた大山・江ノ島巡りをテーマとするガイドブック・旅行記のような側面も有していたようです。後述する広告もそのような内容になっています。

大半のマスには地名と番号以外にも文章があり、各地点間の距離や名物・そこで出会った人物など旅の情報が記されています。確かに旅行前中後の参考用であったり、実際に行かずとも気分を味わえるような娯楽物として楽しめそうです。

スポット情報

双六に描かれた全52か所を整理し、大雑把な場所を地図に落とし込んでみます。

特に調査上の目的は無いのですが、よく知らない地名ばかりでどこなのか分からなかったので…

地名記載事項(抜粋)設定地点Googlemap距離メモ
1日本橋品川へ二里日本橋2まで7.63km 
2品川川崎へ二里半アトレ品川4まで11.78km 
3大森 アトレ大森  
4川崎神奈川へ二里半 六郷舟わたし六郷橋6まで11.31km 
5鶴見芭蕉堂 なまむぎへちかし東福寺 東福寺に芭蕉の句牌あり
6神奈川程が谷へ一里九丁 駅本の橋を瀧のはしといふ瀧の橋8まで4.56km距離は直行(7に寄らない)
7同台より本牧をのぞむ本牧山頂公園  
8
程が谷戸塚へ二里九丁保土ヶ谷駅前公園10まで9.14km 
9戸塚やきもちざか 又権太坂ともいふ石碑 権太坂  
10同駅鶴ケ岡まで五十丁道二里九丁 ひだり鎌倉道戸塚宿吉田町問屋跡19まで10km距離は直行(11~18に寄らない)
11倉田長沼 飯嶋飯島市民の森 それぞれ北から順に隣接
12大道笠間 笠間より今泉 称名道への道あり笠間中央公園 大道は金沢八景の近く
13粟船 大船ルミネウイング  
14小袋谷 小袋谷公会堂  
15山の内今は円覚寺辺りを云大船警察署山ノ内交番  
16円覚寺 円覚寺総門  
17建長寺 建長寺 天下門  
18巨福呂坂 巨福呂坂切通し  
19鶴ヶ岡七里が浜まで一里鶴岡八幡宮29まで5km距離は直行(20~28に寄らない)
20
雪の下 二の鳥居  
21琵琶小路一の鳥居 二の鳥居 段かづら 琵琶橋琵琶橋(鎌倉十橋)  
22稲瀬川 稲瀬川の石碑  
23深沢浄泉寺鎌倉大仏殿高徳院  
24長谷長谷寺長谷寺  
25星月夜の井 星の井  
26極楽寺 極楽寺  
27針磨橋 針磨橋  
28稲村 稲村ヶ崎  
29七里ヶ浜腰ごえまで四十二丁 七里ヶ浜30まで2km 
30腰越小動 江の嶋まで二十二丁小動岬31まで2km 
31
江の嶋藤沢まで五十丁通一り八丁江の島弁財天道標33まで5km 
32固瀬西行の見かへりの松西行の戻り松  
33藤澤四ツ谷へ 一里ルミネ藤沢34まで4km 
34四ツ谷一のみやへ二里四ツ谷一里塚跡35まで7km 
35一の宮田むらへ十八丁一宮館址案内板36まで2km 
36田村伊勢原へ一里十八兆田村の渡場跡37まで6km 
37伊勢原大山不動へ二里いせはらcoma38まで8km+ケーブルカー 
38
大山奥不動より石尊へ山道廿八丁 石蔵より粕谷へ十八丁真言宗大山寺39までケーブルカー+5km 
39粕谷愛好へ廿二丁上粕屋神社40まで6km 
40愛甲厚木へ三十四丁 岡田山をすぎて厚木にいたる愛甲石田駅前41まで4km距離は直行(岡田経由せず)
41厚木川原口へ十八丁厚木神社42まで430m 
42川原口鶴間宿へ二里半厚木村渡船場跡44まで14km対岸が河原口(海老名市) 距離は厚木神社からで計測
43鶴間の原是迄相模八王子道の道標・道祖神・力石  
44
鶴間宿長津田へ一里 是ゟ武蔵境橋45まで5km 
45長津田荏田へ二里 恩田を遍て谷本にいたる長津田公園47まで7km 
46谷本 谷本橋  
47荏田二タ子へ二里庚申供養塔50まで10km 
48馬絹 馬絹神社  
49
溝ノ口 みぞのくち献血ルーム  
50二タ子三軒茶屋へ二里二子の渡し51まで7km 
51三軒茶屋志ふやへ壱里大山道道標52まで3km 
52渋谷日本橋へ二里道玄坂53まで9km 
53日本橋 日本橋  
※漢字は新字体に統一。仮名遣いはそのまま。

以上のように52か所にポイントを設定してみました。あまり深く考えずにポンポン置いています。

かつての街道や描かれている風景・宿場町の分布などより詳しく同定する材料はありそうですが、そこまではしなくていいかな…

ちなみに上記ポイント設定の参考にはしていませんが、神奈川県のHPで観光情報として大山詣りのルートも紹介されています(こちら)。ちょうど今(2023年度)作成中のようです。

地図にピン立てするとこんな感じ↓

分かる人は地名を見ただけで分かるのかもしれませんが、鎌倉・江の島あたりにかなりスポットが集中しているようでした。
その近辺で2泊してるし、大山詣りではなく鎌倉・江の島観光がメインでは?と思わなくもない。江戸→大山→江の島→江戸というのが基本ルートのようですが、逆回りで鎌倉・江の島へ先に行ってますし。

あと各スポット間の距離もGooglemapに計測してもらっていますが、全部足し合わせると165.85km。

6泊7日で想定すると1日平均約24km。さすがに全部徒歩ではないと思いたいですが、それでもなかなかタフな旅程ですね。というかこれは日本橋起点の場合で北斎は大体墨田区・台東区あたりに住んでいたわけですから、さらに10km弱くらいは追加されますね。つらい。

出版経緯

前掲の展示解説文で言及のあった『正本製』(※)第十二編下冊の巻末に、発刊予定の新作について広告が載っています。その文章から、出版時期や制作の背景をちょっとだけ探ることができました。
(※)柳亭種彦作歌川国貞画の合巻

宣伝文は次のとおり。基本的に東京都立図書館の解説を参照していますが、省略部分は自分で補いました。そのあたりは自信がありません…

為一翁かの地に往来のとき真景を写しおかれしに 柳亭子国図ならび諸書を考へ間の宿村名小名(こな)里数までを正されたれバ 童子のもてあそびのみにあらず これをひらきて見給へばその地に遊ぶここちして興あるべき双六なり

日本古典文学会1973複製本(底本:鈴木重三氏所蔵本)より。スペースは投稿者が付与。

各マスの絵は北斎が現地で写生したものとのことで、北斎はそれぞれのスポットを実際に訪れたことがあるようです。

ただし明らかに横道に逸れているスポット(7マス目の本牧とか)があるので、6泊7日の旅程1回でコンプリートしているわけではないように思います。

1日約24km移動しながら最低52枚のスケッチを描くというのも無茶な気がしますし、旅程はもっと長かったとか、もしくは似た行程の旅行を複数回やっているとか。

また、「柳亭子~正されたれバ」とあるので、絵に付されている文章も原案は北斎と思われます。「正す」ということですから、柳亭種彦は監修的な立ち位置ではないかと。

したがって「小僧に銭をせがまれた」とか「坂が48あったけど別にきつくはなかった」とかいう小ネタも北斎の実体験なのでしょう。

続いて刊行時期について。広告欄のタイトルが「文政十四年辛卯春新刻稗史標目」となっており、「文政十四年春」であることがわかります。西暦だと1831年。

先に余談ですが、ここで興味深く感じたのは「文政十四年」という表記。「文政十四年」という年は実在しません。

理由は文政13年12月10日に元号が天保へと改められたから(久保1998)。大正→昭和ほどではないですが年末ギリギリめな改元で、文政13年の年末は天保元年に、文政14年になるはずだった年は天保2年となったようです。

「来年は文政14年だと思って版木を用意していたら元号が変わってしまった」様子が垣間見えて面白いですね。

話を戻します。

1831年というと冨嶽三十六景と大体同時期です。(実際、同広告欄のラインナップには冨嶽三十六景もあります)

この頃は既にお栄さんも嫁ぎ先から離縁されていますね。まだ自分で掘り下げて考えたことはないのですが、お栄さんの出戻り時期は1820年代中盤~後半くらいを想定されていることが多い印象です。

一緒に暮らしているのであれば、このような北斎の旅行にお栄さんが同行している可能性は十分ありそう。特に今回の大山詣りは「関所手形も必要のない、女子供でも気軽に行ける四泊五日程度の遊山の旅として人気」(橋本1985)だったそうなので、お栄さんもその例に漏れないのではと思います。

さらに余談ですが、本記事執筆中の朝ドラ「らんまん」は牧野富太郎をモデルとした槙野万太郎を主人公として江戸末期~明治・大正時代にフォーカスしています。小学生の頃に伝記マンガを読んでいたので興味を持ち、いつも職場で見ています(←自室にテレビがない)

作中で妻寿恵子が渋谷を視察した際に住人が大山詣りに言及しており、やはり相当メジャーなレジャー活動だったんだなあと思ったのでした。

まとめ

思いがけない出会いによって、北斎とお栄さんの旅というテーマで妄想するにあたっての材料が増えました。

今回の双六は旅のルートも大雑把には分かりますし、聖地巡礼もできそう。大変そうなので全然やりたくないですが…。いい自転車を買いたい欲が募っているので、それ次第で気が向く展開…は想像できないですねやっぱり。

参考

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