葛飾応為「夜桜美人図」について

葛飾北斎・応為

2月20日(火)から、メナード美術館にて「所蔵企画展 歳時記 花ひらく春」の後期展示期間となっています。

この期間の個人的な目玉は葛飾応為作(と言われる)「夜桜美人図」。
現在に伝わるものは十数点しかない応為作品ですが、その中で自分が一番好きなのが当作品です。

自分が応為を知ることになったFGOでは本筋で「関羽割臂図」・幕間で「吉原格子先之図」に言及があるものの、当作品には特に触れられていません。どこかの文脈で出てこないかなあと密かに願っています。

今回は当作品について調べてみたことや自分が抱えている考察(妄想)を整理して吐き出してみます。

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展示について

「夜桜美人図」は愛知県小牧市「メナード美術館」の所蔵。

現在開催されている展覧会「所蔵企画展 歳時記 花ひらく春」で、2024年2月20日(火)~3月31日(日)の後期期間にて展示されています。

展覧会の詳細はこちら(メナード美術館HP)。

自分は2022年2月のコレクション展で初めて鑑賞しました。出品目録を確認できる2005年まで遡って展覧会情報を総覧すると、当作品が展示された履歴は以下のようになります。

基本的には1~2年に一度展示されています。目立って間が空いたのは2014・15年と2020・2021年ですが、それでも中2年。「吉原格子先之図」は2年半~3年半くらいの周期ですので、結構高い頻度で展示いただいている印象です。

美術館のトップページにて「夜桜美人図」だけ個別に展示情報が掲載されているくらいなので、相当注目度が高く、問い合わせの多い作品なのだろうと思います。

素人なので分かりませんが作品の状態を維持するのも大変だろうと思うので、これだけの鑑賞機会を設けていただいてありがたい限りです。

作品鑑賞(光と影・闇)

展示の頻度も確保されていますし実物を見るに越したことはないのですが、美術館はそこまでアクセスが良いわけではありません。致命的に悪いとも言いませんが…

そこで便利なのがWebマガジンartscape』でデジタル化された画像。部分的ながら掛軸の模様も確認できるほか、作品の特徴である「光」が綺麗に映っています。

当作品における「光」の要素は大小の灯籠2つと数多の星々。

描かれている女性の顔や手元・桜を照らすのが画面中央の大きな灯籠の火。桜の花びらのうち光源に近い部分は光の色が被さり、離れるにつれて元の色⇒やや影を帯びる⇒暗がりに隠れる⇒真っ暗、といったグラデーションがあるのが印象的です。

画面右下の小さな灯籠の火は足元を照らしています。こちらも周囲に明⇒暗のグラデーションを与えているほか、太陽のような暈に覆われているところが幻想的です。

一番好きなのは画面上部の星々。自分が応為作品の中でも「夜桜美人図」を最も好むのは、この星空に因るものと言えます。

星の色は一様ではなく白・赤・黄・青と区別しそれぞれの濃淡も加えられ、夜空そのものも黒一色ではなく若干のグラデーションが(経年によるものなのかも分かりませんが)。美しい夜空に見惚れてしまいます。

自分は日頃の鑑賞用にポストカードを飾っています(メナード美術館で買えました)が、紙に印刷されたものだと「光」の中でも星々の鮮やかさが薄れてしまっているかなという印象。デジタル版は星の輝きが映える点がとても良いです。

デジタル版に言及する流れで「光」について重点的に紹介しましたが、表裏一体である「影」「闇」の要素も当作品の特徴。黒なのでポストカード版でもばっちり。

個人的に真っ先に目につくのは画面上部、夜空の手前にある左右の木々。星々のある空はやや明るく、そういった光のない木々はより暗く、ということでしょうか。空よりも濃い黒で存在感があります。
余談ですが右の木は幹の感じから松だろうと思っていて、同じ高さの左の木も松なのだろうと思っていました。しかし暗い部分の輪郭をよく見ると左右で異なっており、右は確かに松ですが、左はどうやら桜のようです。

また画面中央左にある桜も、距離的には灯籠に近そうですが真っ暗。そういえばこの桜は灯籠より手前にあるので、光源と鑑賞者の位置関係を考慮して暗くしているのかと驚きます。これは灯籠本体も同じ。

葛飾応為は「江戸のレンブラント」の他に「光の浮世絵師」と形容されることが多いですが、「夜桜美人図」や「吉原格子先之図」は光との対比において影・闇を際立たせていることも重要な特徴なのかなと思います。

「光の~」もそれは含意しているのでしょうが、より強調する呼び方ができたらいいですね。まあそれは「~レンブラント」の方でいいのかな…

作品情報

「葛飾応為作」の賛否について

「夜桜美人図」には作者を示す「落款」がありません。落款にも真贋があったりするので落款がある=100%当人で確定というわけではないですが、1つの重要な証拠を欠いている状態ではあります。FGOで言及されている「吉原格子先之図」や「関羽割臂図」は応為の落款がある作品なので、落款の有無に左右されてしまったのかも(?)。

落款やその他記録として示されるものがないものの当作品が応為作であるとされる一般的な理由はその作風にあります。主要なのは「女性の顔」や「桜の花びら」の描き方といったところですが、久保田一洋氏は「細かな指先」や「垂直の構造物」もまた応為の作画の特徴として各論著で述べており、当作品もその特徴を有するとされています。

なお、久保田氏は書籍『北斎娘 応為栄女集』(久保田2015)において当作品を紹介するにあたり、その伝来を整理しています。昭和7年の時点でお栄作「春夜美人図」として紹介されている(雑誌『浮世絵芸術』第1巻5号)ほか、昭和初期の時点で複数の展覧会においてお栄の作品として出品されているようです。

また、描かれている人物に関わるエピソードも応為作であるヒントとして挙げられます。後述するように図中の女性は「秋色しゅうしき」という女流俳人であることが通説ですが、「井のはたの 桜あぶなし 酒の酔」という句で知られるようです。この「えい」が「栄」に掛かっており他の応為作の作品でも落款として「酔」の字が使われていることから、作者を暗示できるものとして解釈できそうです。

口伝の情報も多少はあったであろう時期から応為(お栄)作として伝わっていますし、作画の特徴などもなるほどと納得する内容です。特に異論はありませんし、異論を唱えようとするつもりもありません。

描かれている女性について

描かれているのは「秋色しゅうしき」という江戸中期の女流俳人ではないかということで、秋田達也氏の論考(秋田2004)にて考察されているようです。様々な論考で秋田氏の説が紹介されており、特に議論は生じてなさそう。

秋田氏の論考は掲載雑誌が国会図書館(関西館)にしか収蔵されていないので先送りにし、そのまま長らく忘れていました。遠隔複写を申し込まねばならず本記事の目標日に間に合わないと思っていましたが、そもそも執筆自体が目標日に間に合ってないので複写が届いて読めました()。調べたことが大体書いてあるので、さっさと複写を申し込めばよかったなと後悔。

秋色という人物が当時どの程度知られていたのかと先んじて事典や論文などで調べてみましたが、どうやら超有名っぽい。当人のエピソード(秋色伝説)により「秋色桜」と名付けられたしだれ桜があるそうです。

撮影:2024/2/17

植え継がれた9代目が初代と同じ寛永寺清水堂そばに現存しています。図書館で資料を読んだ帰りに早速見に行きました。桜の季節にまた見に来たいものです。

秋色を題材とした他の作品と「夜桜美人図」を比べてみるとどうなのだろうと思い、「浮世絵検索」というサイトにて玉林晴朗という方の書籍で紹介されている作品や「秋色」で検索したら出てくるものを見てみました。久保田氏は「夜桜美人図」に秋色伝説の井戸が無いことを気にしていましたが、井戸の有無はあまり気にしなくていいのかなと思いました(後述)。

制作年代について

「吉原格子先之図」と同じく、自分が特に気になっているのはその制作年代。落款の無い作品なので制作年代の見当をつけたい優先度は些か劣るのですが、卓越した明暗表現は「吉原格子先之図」との関連性を求めざるを得ないでしょうし…

応為を主題とする論考で当作品に触れられることは数多くありますが、制作年代に言及されることはあまり(ほとんど)ありません。他の応為作品もそうですが基本的に情報がないので推測するしかなく、論じようがないのだろうと思います。

つまり妄想し放題()

…とはいえ応為本人の生没年もそうでしたが、どのくらいまで許容範囲なのか/どのくらいまで絞り得るのか(主に前者)を考えてみます。

学説

「夜桜美人図」は一般的には19世紀中頃の作品として紹介されます。しかし、メナード美術館における展示でも同じなのですが、2005年と2007年の展覧会(前掲)では「1830年(天保元)頃」として紹介されていました。どのような理由で天保元年と推定しどのような理由でそれを撤回したのか非常に気になるのですが、知る術は無いかな…。美術館に問い合わせてもただのめんどくさい人ですし。

そのほかは前述したとおり当作品の存在またはその特徴にのみ言及する論考がほとんど。一応秋田2004でも軽く触れられていますが、割と積極的に制作年代の考察を試みたものと言うと久保田2015(前掲)に限られます。

まず秋田氏の考察ですが、制作年代という文脈では脚注にて「大きく天保期以降」と記すのみ。しかし秋色が当作品の題材となっていることの背景として、天保の改革による浮世絵への禁制が挙げられています。

  1. 天保13年(1842)に出された「役者・遊女・芸者の浮世絵を禁じて忠孝・貞節を画題に選ぶこと」という禁制。
  2. 秋色桜のほか、孝女としても知られる秋色。

以上2点により秋色は天保改革以降にますます注目度が上がったのではと指摘されています。後述しますが自分でも秋色を描いた浮世絵を検索して「19世紀後半が多いな」と思っていたので、そういう側面があるのかと腑に落ちてしまいました。

続いて久保田氏の考察

  1. 「当作品は小布施で描かれた」という伝承がある。(『浮世絵芸術』第1巻5号)
  2. 落款がない=北斎作ということにしようとした可能性があるため、北斎の存命中かつその作であると主張できそうな時期。
  3. 北斎最晩年作の「富士越龍図」と構図が相似しているため、制作年代が近いのではないか。

以上の理由により、「ひとまず」ということではありますが弘化~嘉永元年(1845~1849)にまで絞っています。非常に参考になる考察ですが、賛同しがたいところもあります。

まず1.は『浮世絵芸術』第1巻5号にある外狩素心庵という人物による伝承。「天保2年に応為が小布施で北斎の助けを得ながら描いた」という内容で、「天保2年」は誤りですが「小布施で描いた」は正しいものとして仮定されています。

応為が北斎に同行して小布施へ赴いたのは「弘化2年」なのですが、元号が違うだけで年数は同じ。元号のみの錯誤ということであれば、この伝承の妥当性はそこまで低く見なくていい気もします。

続いて2.について、とりあえず作品はできたけど売るときに北斎or応為どちらの作ということにするか決めようとストックしてそのまま…ということですね。

これに関連して飯島虚心『葛飾北斎伝』は、天保10年(1839)に北斎の自宅が火事に遭ったエピソードを紹介しています。長年蓄えた絵図を含む家財のほとんどが焼失してしまったようです。ストックしていたのならその火事で失ってしまったでしょうから、多少は留意しておいた方がいいのかもしれません。

しかし「北斎の存命中かつその作であると主張できそうな時期」というのは火事の前後どちらにも候補があるような気がするので、2.は他の理由で時期を絞ったうえで当てはまりそうか確認する…という程度の位置づけかもしれません。

そして3.について「富士越龍図」は大小2点が現存するようなのですが、小さい方には北斎90歳(没年)の作品である旨の落款があります。久保田氏曰く、画面左の富士山や右上の龍を包む煙雲といった構図が「夜桜美人図」の灯籠や松の配置に似ているということです。

言われてみれば確かに…?と思わなくもないですが、これについては眉唾の域を出そうで出ないというのが個人的な感想。構図についての個人的な所感は項を改めます。

「夜桜美人図」の構図について

特に目が肥えているわけでもない素人の所感ですが、素人なりに考えをまとめておかないと考察(妄想)を進められないなと思ったので。

  1. 秋色の描かれ方(井戸がないこと)
  2. 構図(灯籠、秋色の配置)

この2点をとりあえずの着眼点に。

まず井戸については前に軽く触れましたが、他の秋色を描いた作品を見ても井戸が強調されている印象はあまりありませんでした。「浮世絵検索」等で図版を確認できたのは以下。

(※)秋田2004にて図版を確認。

いずれも秋色の名が明記されていることや19世紀後半(「夜桜美人図」より後の可能性が高い)の作品であることに注意が必要かもしれませんが、セットで描かれる題材は紙と筆>桜>井戸。「俳人」「桜」が秋色の主なイメージであり、句で詠まれた「井戸」は二の次な感じがします。秋田2004でも同じイメージ(桜、筆、短冊)で語られていました。

また、「夜桜美人図」では井戸ではなく灯籠が描かれていますが、

撮影:2024/2/17

当時もそうだったかは定かでないものの、秋色桜のそばにはばっちり灯籠が。秋田2004によると右側の灯籠に銘文があり、宝永6年(1709)のものらしい。

一応井戸もある(画面右手前)のですが、おそらくこちらは後から造ったもの。当時の井戸は清水堂からもっと離れたところにあったという伝承もあり定まらないと看板に書いてありました。

  • 井戸がなくとも紙・筆・桜の要素があれば十分に秋色と通じること
  • 秋色桜のそばに灯籠があっても不思議ではないということ
  • 垂直の構造物という応為の傾向
  • そもそも作品的に光源が必要ということ

以上から、井戸がないけど灯籠があるのは十分頷けるかなと思います。

なお井戸そのものは無いのですが、秋田2004では灯籠の火袋に井桁の桟がはめこまれていることに言及があります。自分も前掲写真のように灯籠の実物を見たり灯籠一般について調べるなかで、「夜桜美人図」の灯籠はなぜ格子がはめ込まれているのだろう…」と思うことがありました(思っただけですけど)。そこに「井」の字を見出す発想はなかったです。

続いて灯籠と秋色の配置を応為の人物描写の傾向から考えてみます。

応為が描く女性の顔は「鑑賞者側から見て左向き」(図中の本人にとっては右向き)である割合がかなり高いように思います。(浮世絵全体でそんな気がするものの、検証不足ですしそこまで広げなくてもいいでしょうから置いておきます)

応為作に帰される美人画で顔を描かれている女性が1人のものを見ると、全て左向きです(「月下砧打ち美人図」、「蝶々二美人図」、「朝顔美人図」、「蚊帳美人図」、「手踊図」。久保田氏書籍にて図版を確認)。複数人の女性の顔を描いているものとして「三曲合奏図」もありますが、顔が描かれている女性2人のうち1人は左向き。人物を描くときはまず左向き、という傾向がありそうです。

であればまず秋色は左向きに立つことになります。そして光源に背を向けるわけにはいかないので、灯籠はその正面。となると秋色が画面右側に立ち灯籠は相対する左側という構図になるのが自然ではないかと思ったわけです。

久保田氏による「富士越龍図」との関係性は2作品を並べて見ると確かにそうかもと思いましたが、重ね合わせの図を見せられて逆にそうでもないなという印象になりました。そこを出発点として構図について素人なりに考えを整理して、わざわざ「富士越龍図」と関連付けなくていいかな…という認識に至っています。

創作における「夜桜美人図」

応為を描いた小説に「夜桜美人図」らしき描写があった場合、それがどの局面だったかを整理してみます。

ちなみに、応為を主人公とした小説はひと通り読了しているはずなのですが、一番好きだったのは山本昌代さんの『応為坦坦録』たかなと思います。まあ「夜桜美人図」は出てこないんですけど。

杉浦日向子さんの漫画『百日紅』も、映画含め好き。そういえば映画のBDをまだ買ってないな…。まあこちらも「夜桜美人図」は出てこないんですけど。確か。

作者名作品名描写局面
キャサリン・ゴヴィエ
(モーゲンスタン陽子訳)
北斎と応為「春夜美人図」北斎没の2~3年後?
→嘉永4~5(1851~52)年頃
朝井まかて「夜桜美人図」天保15(1844)年頃
塩川治子北斎の娘「石灯籠の灯で文を見る美人」天保10~11(1839~40)年頃?

あまり数はなく、さらにそれぞれバラバラ。とりあえず天保の後期以降って感じでしょうか。

『眩』では章のタイトルにもなっているだけあって、制作動機の掘り下げはそれほどかもですが制作過程が詳しく描写されています。他は何気ない感じで、物語においてそれほど重要な位置づけはされていない様子。

「紅嫌い」との関連性

「夜桜美人図」における明暗表現は応為独自のものなのか、以前から似たようなものはあってその系譜にあたるのか。こういうことを考えていたとき、小林忠氏が「紅嫌い」という種類の浮世絵と関連づけている論説(小林1995)を見ました。

紅嫌いは天明~寛政年間(18世紀末~19世紀初)に流行したらしく、ちょうど応為の時代の少し前。また、代表作家の1人である勝川春潮は勝川春章の弟子。すなわち葛飾北斎と同門。関連論文(田中1983)には紅嫌いの作例リストが記載されており、勝川春潮は版画が主なようですが、勝川春章の方に肉筆画での作例があるようです。

「夜桜美人図」が紅嫌いを継承するものであると認識できれば、同作は紅嫌いの流行期からそう遠くない19世紀前半頃に制作されているという可能性を残すことができるかもしれません。

ただ「紅嫌い」のwikiを見ると「紅色などの派手な色を敢えて使用せず、墨、淡墨、鼠(ねず)を基調として、黄色、藍、紫や緑を僅かに加えた錦絵」という説明。そう言われるとなんか違う気もする。「夜桜美人図」で赤が普通に使われていることもそうですが、紅嫌いはただの(というと聞こえが悪いけど)モノクロ表現で、光を意識したものではないような説明です。

特に版画の方は「浮世絵検索」で検索してみてもやっぱりモノクロの印象が強かったのですが、肉筆画の方でもう少し詳しく作例を見てみることに。田中1983のリストでは刊行物に図版のあるものが紹介されているので、比較的容易に閲覧できるものをピックアップ。

  • 酒井抱一「松風村雨図」@『肉筆浮世絵』第10巻(集英社1983)
  • 勝川春章「美人(桜下太夫禿歩行)図」@『国華』第19号(雄松堂書店)
  • 窪俊満「縁先美人図」@『肉筆浮世絵』下巻(講談社1963)
  • 窪俊満「松の木太夫図」@『浮世絵事典』下巻(画文堂1971)
  • 窪俊満「竹林三美人図」@『肉筆浮世絵』第5巻(集英社1983)
  • 窪俊満「桜下遊女図」@同上
  • 窪俊満「擣衣の玉川図」@『浮世絵聚花』16(小学館1981)
  • 水野廬朝「松風村雨図」@『肉筆浮世絵』第5巻(集英社1983)
  • 鳲鳩斎栄里「六玉川美人図」@『肉筆浮世絵』第6巻(集英社1981)
  • 喜多川歌麿「遊女と禿図」@同上

自分が確認したのは以上10点。結論としては、特に陰影表現は見られないと思いました。「桜花太夫禿歩行図」や「松の木太夫図」あたりは空の暗さを感じなくもないですが、それを陰影表現と呼べるかは微妙なところ。

勝川春章・春潮の名前が出てきたときはオッと思ったのですが、個人的には紅嫌いと関連する線は無しで考えます。

オランダ商館との関連性

紅嫌いと同じく明暗表現の源泉をどこかに求めようとするとき、浮世絵が西洋画の技法を受容していく流れとは切り離せないものと思います。なかでも文政9年(1826)にシーボルト含むオランダ商館御一行が江戸を訪れたことに付随する出来事は応為に少なからず影響を与えているはず。

第一にはシーボルト・コレクションにある北斎画15点。注文主や注文時期(制作期間)は必ずしも特定されていないようですが、1826年にシーボルトが北斎から購入したものとして知られる水彩画です。

久保田2015では15点のうち3点(「端午の節句図」「商家図」「花見図」)に応為の手が入っているのではとされています。衣服や調度品・持ち物など、全体的に陰影表現が施されています。やはり「夜桜美人図」の方が突出しているように思うので3点は応為による陰影表現の端緒(「夜桜美人図」は後)と見るべきか、そもそも3点の画題は日中だから暗い部分がそこまで強調されるものでもないので制作順序は不定(「夜桜美人図」が前もあり得る)と見るべきか。

第二は川原慶賀の影響。オランダ商館のお抱え絵師として活躍した人物で、シーボルト一行に帯同して江戸を訪れています。ファン・グーリック1978では前述の水彩画15点と慶賀の作品とで使用している紙(古オランダ画紙)が同じであることから、慶賀が北斎らにその紙を渡した可能性が提起されています。紙なんて誰からでも渡せますし注文がシーボルトらの江戸来訪より前の可能性も多分にあるので微妙なところですが、何らかの形で両者に直接の交流はあったとみていいでしょう。

川原慶賀はオランダ商館の各人物による指示で多ジャンル多量の作品を残しているようですが、オーダー元の影響なのか一般の浮世絵とは異なる印象を受けます。いくつかの雑誌(『みづゑ』903号、『美術研究』378号など)で図版を確認しましたが、遠近表現はもちろん、昼間の情景を描く作品でも日射方向に物や人の影が伸びているなど陰影表現が見えます。

夜を描いた作品もいくつかあり、よりはっきりした明暗表現を見出すことができます。例えば『長崎歳時記』より「豆撒き(節分)」。

ダウンロード元:https://publicdomainr.net/mizue-no-903-june-1980-0001859/ ※オリジナルより画質を下げています

中心の光源に近い部分は明るく、遠い部分は暗く描かれています。ググると長崎歴史文化博物館HPにて同じ構図の別バージョンも見ることが出来ますが、より暗くなっています。囲炉裏でそこまで明るくなるとも思えないので、そちらの方が自然かも。光源が少ない(または弱め)で闇が強調される点は「夜桜美人図」に似ているように感じます。

ダウンロード元:https://publicdomainr.net/mizue-no-903-june-1980-0001832/ ※オリジナルより画質を下げています

こちらは『職人づくし』より「青楼」。提灯の真下に影ができていたり、右手の建物から伸びる光は格子で一部影になっていたり、光源と物の位置関係が描写に反映されています。「吉原格子先之図」に近いです。

このように川原慶賀と応為の明暗表現はよく似ており影響関係にあるように思われますが、問題はその順序。慶賀→応為なのか、応為→慶賀なのか。さすがに慶賀が後ということはないでしょうが、一応調べてみます。

慶賀は遅くとも文化8年(1811)には出島に出入りしているようで、中心となる作画期はシーボルト事件の文政11年(1828)9月より前までとなります。作画期はさらにフィレニューフェという人物の来日前後や収集主の変遷(ブロンホフ→フィッセル→シーボルト)によって分けられるようです。

フィレニューフェはシーボルトの要請で文政8年(1825)に来日した助手兼絵師らしく、慶賀と分担する形でシーボルトの需要を満たしていたようです(野藤2015)。慶賀作品の描写の質がブロンホフ・コレクション⇔シーボルト・コレクションで明らかに違う(フィッセル・コレクションはその中間)と評されることが多いようなのですが、フィレニューフェ来日の影響やシーボルトの要望によるものとされているようです。

兼重2003では各収集主のコレクション全てに含まれる類似作品(風俗画「道具運び」)が図版つきで比較されていました。

  • ブロンホフ・コレクション版…平面的、影なし
  • フィッセル・コレクション版…奥行あり、影あり(弱め)
  • シーボルト・コレクション版…奥行あり、影あり(強め)

制作年代がはっきりしないのでフィッセル・コレクション版の時系列が分からないのですが、慶賀作品の陰影表現はフィレニューフェとシーボルトに要因を求めるのが確かに妥当かと思いました。

すなわち応為→慶賀ではなく慶賀→応為で、慶賀の表現方法を摂取した応為がさらに強烈なものへ引き上げたということでしょう。引き上げ幅がぶっとんでる気がするのはどう捉えるべきか…

個人的な制作年代の所感

全体としては天保改革と秋色の関連性や外狩氏による伝承を根拠として弘化2年(1846)説をそこそこ信じそうになっています。

本音を言うともっと早い時期に制作されている可能性を模索したい。川原慶賀との関連性を考慮すると遡れる上限は文政9年(1826)頃ということになるでしょうから、なるべくそこに近づけることはできないものかと思っています。女性の作画に限って言えば、文化~文政ともされる辰女時代の時点でほぼ同等のレベルにあると思うのですが…

それこそ冒頭で言及したメナード美術館の天保元年(1830)説が一定の根拠を備えていたら嬉しいんですけどね。

終わりに

脳内で巡らすのみで先延ばしにしていたものを10日前くらいから詰め込もうとした結果、当初目標とした2月20日には全然間に合いませんでした。当たり前ですね。文字に起こしていくいく過程で新たに閲覧したい資料(論文)が次々と発生してしまい、なかなか困りました。

結果的に秋田2004の遠隔複写が間に合ってしまったので反映しようとしたところ、間に合わない前提で予め調べ考えた内容とかなり重複していてさらに困りました。もとの文章はなるだけ維持しつつ、秋田2004でも書かれていることを付記するような形にしています。

当然ながら前回「吉原格子先之図」の展示について書いた時と同じく、挿絵を描いてサムネにでも置いてみようとする試みは無しで。今から描こうとしたらメナード美術館の展示期間が終わってしまいます。考察(妄想)を一旦まとめただけマシということにします。

一応まとめはしたものの、制作年代についてもうちょっと何か良い視点がないかは引き続き模索したいと思います。

参考

  • 秋田達也2004「応為筆「夜桜美人図」をめぐって」『フィロカリア』21
  • 飯島虚心著鈴木重三校注1999『葛飾北斎伝』岩波書店
  • 影山幸一2010「葛飾応為《夜桜美人図》抒情と科学の暗闇──「安村敏信」」『artscape』2010年8月15日号
  • 兼重護1980「覚醒への軌跡」美術出版社『みづゑ』903
  • 兼重護2003『シーボルトと町絵師慶賀 日本画家が出会った西欧』長崎新聞社
  • 久保田一洋編著2015『北斎娘・応為栄女集』芸華書院
  • 小林忠1995「廓の夜の光と影–北斎の娘応為の浮世絵」『日本の美学』23
  • 田中達也1983「紅嫌い技法および同様式の肉筆画法について」『浮世絵芸術』80
  • 玉林晴朗1941『秋色と秋色桜
  • 日本古典文学大辞典編集委員会編『日本古典文学大辞典』「秋色」(執筆白石悌三氏)
  • 野藤妙2015「シーボルトの絵師、川原慶賀とCarel Hubert de Villeneuveによる絵画制作について」『一滴』22
  • ファン・グーリック1978「シーボルト・コレクションについて」『秘蔵浮世絵 オランダ国立ライデン民族学博物館シーボルト・コレクション』3
  • 山梨絵美子2003「研究資料 クンストカーメラ所蔵 フィッセル・コレクションの日本絵画—川原慶賀作品を中心に」『美術研究』378

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